カノン砲

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カノン砲(カノンほう、加農砲)およびカノン(加農)は、火砲(大砲)の一種。定義は同口径榴弾砲に比べて砲口直径(口径)に対する砲身長(口径長)が長く、高初速・長射程であるが重量とサイズは大きく、やや低仰角の射撃を主用する(#定義)。しかしながら、概ね冷戦後の現代は火砲の進化(榴弾砲の長砲身化)による砲種の統廃合(榴弾砲の統一)により、榴弾砲とカノン砲の区別は無くなっている(#歴史)。

定義

ファイル:Jaivan Cannon 2.jpg
カノン砲ジャヤ・ヴァナ - インドジャイガル要塞)で造られた18世紀当時の世界最大の280mmカノン砲。重量は、50トンに及ぶ

カノン砲(gun)は16世紀から17世紀の間は砲弾弾丸)重量42ポンド以上の大口径の滑腔砲の呼称として用いられた。また、「半カノン砲(Demi-cannon)」という砲は弾丸重量は32ポンドであった。その後、榴弾が発明され三十年戦争を機に野戦においても火砲が多用されるようになると(野戦砲)、榴弾を主に曲射弾道で射撃し(曲射砲)、野戦に便利なように砲身をある程度短くするなどした火砲は「榴弾砲」、これまでのように砲丸散弾榴散弾による直射(平射砲)を主に行う火砲は「カノン砲」と区別して運用されるようになった。

しかし、駐退復座機が開発され火砲が飛躍的な進化を遂げた19世紀末以降、カノン砲でも比較的仰角をとった曲射の間接射撃を行うようになり、火砲の全盛期であった20世紀中半・第二次世界大戦頃までは「榴弾砲は30口径前後まで、カノン砲はそれ以上」と口径長[1](砲身長)で両砲を大まかに区別するようになった。

ファイル:Cannons at Yushukan.jpg
右・八九式十五糎加農(口径149.1mm・口径長40・砲身長5.96m・初速734.5m/s・最大射程18,100m・戦闘重量10,422kg)
左・九六式十五糎榴弾砲(口径149.1mm・口径長23.5・砲身長3.53m・初速540m/s・最大射程11,900m・戦闘重量4,140kg)

カノン砲は(同口径の)榴弾砲と比較して、砲弾に緩焼性の比較的高い多量の装薬を用い長砲身のため射程や低伸性に優れるが、射撃時の高い腔圧や大きな反動に耐えるために砲自体の重量は重く仕上がり、サイズも大きく機構も複雑となり生産性や運用性に劣る。カノン砲が主用する砲弾もあくまで榴弾・破甲榴弾尖鋭弾(遠距離射撃用の榴弾)などであるため、近現代においては使用砲弾の差異によって榴弾砲とカノン砲とが区別される訳ではない。

榴弾砲と異なり高初速で弾道が低伸性に優れるため低仰角(概ね射角45°以下)での遠距離射撃(対砲兵戦等)を得意とし、近中距離の目標を直接照準・零距離射撃で砲撃することも可能でもある。そのため敵に射撃位置が察知されにくく、しばしばゲリラ戦術による砲撃に用いられた。例としてガダルカナル島の戦いにおいて「ピストル・ピート」の渾名をアメリカ海兵隊につけられた大日本帝国陸軍九二式十糎加農や、沖縄戦における八九式十五糎加農による嘉手納飛行場砲撃などが挙げられる。

左掲の八九式十五糎加農(右)と九六式十五糎榴弾砲(左)は、(後者は砲身の強度を上げかつ軽量に抑えられる自緊砲身採用の新鋭榴弾砲であるなど、開発年代に差があるものの)第二次大戦における日本陸軍の主力15cm加農・榴弾砲である。ともに同口径(15cm)の火砲であるが、カノン砲と榴弾砲の違いとして最大射程のみならず砲身長・重量・サイズ・構造が大きく異なる(八九式の放列砲車重量は九六式の2倍以上)。なお、日本陸軍において加農の略称・略字は頭文字を取り「加」および「K[2]」であり、15cm加農は「十五加(15加)」や「15K」などと称していた[3]。なお、榴弾砲は「榴」および「H」。 テンプレート:-

名称

主に幕末以降、欧州の軍隊に範を取り火砲など多くの装備を輸入していた日本では、名称はそのままに本砲を「カノン」と呼称、これに漢字を当て字し「加農」と表記した。建軍以降フランス陸軍ドイツ陸軍に倣い、その後も長きにわたり欧州の影響を受けていた日本陸軍(日本軍)では、この「加農」の名称を受け継ぐとともにまた終始一貫して「加農」の名称を制式かつ正式の表記として使用している(兵器の制式名称・試製名称も「○○式○○加農」「試製○○糎加農」と表記する[4][5])。「加農砲」の表記はあくまで俗称であるが、その語呂の良さから当時から陸軍内外でも並行して使用されており[6]、また日本陸軍の事実上の後身である陸上自衛隊では、155mm加農砲M2といったように「加農砲」を制式かつ正式の表記として使用することになっているため、現在では「加農砲」および「カノン砲」の表記が一般的となっている。

各言語での名称は英語gun(ガン)、ドイツ語:kanone、フランス語:canon、ロシア語:пушкаなど。なお、英語におけるcannonは「火砲」(「砲」)全体を意味し、(カノン砲をcanonと称する)フランス語で榴弾砲はobusierと称する。

歴史

テンプレート:Seealso

前装滑腔砲時代

前装式滑腔砲時代では最も重く、大重量の砲弾を発射する重砲にカノンの名を与えている。榴弾砲登場後、カノンは平射野砲全般を指す単語となった。砲弾は主にホールショット(無垢の鉄砲丸。ラウンドショットとも)を発射するので弾着しても爆発はしない。目標への直接射撃もするが、野戦ではボウリングの玉同様、地面へ弾をバウンドさせて敵兵をなぎ倒すのが主な使用法である。その他、ぶどう弾キャニスター弾などの散弾。バーショット、チェーンショットのような特殊な砲弾も場合によっては撃ち出した。

艦砲では最大級の68ポンド砲を「カノンロイヤル」または「ダブルカノン」と呼称し、以下42ポンド砲を「ホールカノン(単にカノンとも)」。32ポンド砲を「デミ・カノン」と呼んだ。24ポンド砲未満も平射砲ではあるが、艦砲の分類ではカルバリン砲グループに分類されてカノン砲扱いはされない事が多い。

その重量故に陸戦では機動性に難があり、特に32ポンド以上の砲は野戦よりも攻城砲要塞砲として使われるケースが殆どだった。17世紀に入り、仏陸軍でド・ヴァリエール・システムグリボーバル・システム導入により砲と砲架が軽量化され、口径が標準化された後も、野戦へ投入されるカノン砲は24ポンド砲が最大であった。

19世紀後半、後装施条砲の開発と砲の長射程化及び榴弾の一般配備によって、カノン砲は最前線で「砲兵が直接視認可能な敵を撃つ」砲から、後方から「弾着観測によって視界外の敵を狙い撃つ」砲へと大きく姿を変える事となる。

後装施条砲時代

カノン砲・榴弾砲・野砲(口径100mmクラス以下で70mmクラスが主体の師団砲兵[7]向け軽カノン砲)の区別と住み分けが定まった20世紀初頭以降、生産性や運用性に優れる榴弾砲に次いで、近代各国陸軍砲兵の主力火砲の1つとなったカノン砲は第一次世界大戦で多用され、攻城戦塹壕戦でその大威力を発揮し、同大戦は文字通り火砲中心の戦いとなった。

戦間期には他砲種とともにカノン砲の高性能化や多様化が進み各国陸軍はこれを保有、中でもソ連赤軍は「加農榴弾砲(гаубица-пушка)」と称す榴弾砲としては比較的長砲身でカノン砲としては高仰角がとれる新鋭砲、ML-20 152mm加農榴弾砲を開発し多数を配備した。なお、ドイツ陸軍は主力重砲として他国のような15cm・12cm級カノン砲を主力とせず、口径21cmの重榴弾砲21cm Mörser 18(長砲身の重榴弾砲相当であるがこれを臼砲と定義)を開発・配備、しかしのちの第二次大戦中期以降は小口径化しながらも最大射程を延伸した17cmカノン砲である17cm Kanone 18に更新している。

同時期の高射砲[8]対戦車砲艦砲はその用途上、長射程や高初速が求められるため砲自体はカノン砲の系統であることが多い。1930年代後半に開発された最新鋭砲の中には、日本陸軍の九六式十五糎加農(最大射程26,200m、戦闘重量24,314kg・牽引重量36,054kg)、ドイツ陸軍の17cm Kanone 18(最大射程29,600m、戦闘重量17,520kg・牽引重量23,375kg)など特に長大射程を有する重カノン砲が登場した。

第二次大戦における主要列強各国の主力カノン砲と最大射程・戦闘重量(放列砲車重量)は以下の通りで、これらは主に師団砲兵ではなく軍砲兵軍団砲兵たる独立部隊[9]で運用され、進化した航空戦力や重榴弾砲とともに戦闘の雌雄を決する存在となった。

  • A-19 122mmカノン砲(ソ連赤軍) - 20,400m・7,250kg
  • ML-20 152mm加農榴弾砲(ソ連赤軍) - 17,230m・7,270kg
  • 15cm Kanone 18(ドイツ陸軍) - 24,500m・12,460kg
  • 17cm K 18(ドイツ陸軍) - 29,600m・17,520kg
  • M1 / M2 155mmカノン砲アメリカ陸軍) - 23,500m・13,880kg
  • BL 4.5インチ砲(口径114mm、イギリス陸軍) - 18,000m・5,900kg
  • 九二式十糎加農(日本陸軍) - 18,200m・3,730kg
  • 八九式十五糎加農(日本陸軍) - 18,100m・10,422kg
  • 九六式十五糎加農(日本陸軍) - 26,200m・24,314kg

第二次大戦頃までは野戦砲としての用途のほか、攻城砲列車砲要塞砲海岸砲として大口径大重量のカノン砲が(榴弾砲と共に)多数使用された。特に第一次大戦において、ドイツ陸軍が開発・実戦投入したパリ砲(口径21cm・砲身長28m・口径長58.8)は最大射程130,000mを記録し、第二次大戦期の主力列車砲である28 cm Kanone 5 (E)(口径28cm・砲身長21.539m・口径長76.1)は最大射程62,400m(ロケットアシスト弾使用で最大86,000m)、また80 cm Kanone (E)(「グスタフ」・「ドーラ」)に用いられたカノン砲(口径80cm・砲身長28.9m・口径長40・最大射程48,000m)は、世界最大口径のカノン砲であると同時に現在に至るまで世界最大の火砲である。

ファイル:Armata samobiezna 2S7 Pion.jpg
2S7ピオン 203mm自走カノン砲

第二次大戦後、戦前より砲兵戦力に重点を置いていたソ連軍は、M-46 130mmカノン砲2A36 152mmカノン砲といったさらに超長砲身の新鋭カノン砲を開発し、これらは同国軍や同盟国・友好国に配備され各地の戦争紛争内戦で使用された。M107 175mm自走カノン砲2S5ギアツィント 152mm自走カノン砲2S7ピオン 203mm自走カノン砲コクサンM107 175mm自走カノン砲など、カノン砲を自走砲化した「自走カノン砲自走加農砲)」も開発・採用された。

しかし20世紀後半以降、「長砲身の榴弾砲:カノン榴弾砲加農榴弾砲(Gun-howitzer / Howitzer-gun)」や、長砲身の榴弾砲を搭載する自走榴弾砲の出現により、(カノン砲は野砲とともに榴弾砲に統合された形で)榴弾砲とカノン砲の区別は事実上なくなってしまっている。これら現用の155mm / 152mm榴弾砲の口径長は、第二次大戦当時の分類に従えばカノン砲に相当する39・45、あるいは52口径が主体であり、またロケットアシスト弾(RAP弾)やベースブリード弾(BB弾)といった特殊(特種)な長射程弾を使用することにより、40,000m弱から80,000mほどの長大射程をもつようになった。

21世紀初頭現在において、狭義のカノン砲・自走カノン砲を運用しているのはソ連軍の後身でありその装備を引き継いだロシア軍と旧東側諸国軍などいくつかの国に限られ、(ロシア軍を含む)世界においては牽引榴弾砲や自走榴弾砲、BM-27BM-30TOS-1M270(MLRS)を筆頭とする自走ロケット砲が砲兵戦力の主体となっている。 テンプレート:-

カノン砲一覧

第一次世界大戦

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第二次世界大戦

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第二次世界大戦後

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脚注

  1. 「口径○○mm」などという表記方法では砲身内径の直径をmmやinで表す(施条があれば山同士の内側の径で計る)が、「xx口径」「口径長」という表記方法では砲の(砲身直径の意味の)口径を分母に、砲身内で装薬が収まり砲弾が加速される長さ(砲身長)を分子とした数値を表す(砲身長は薬室の最後部から砲口までである)。例えば、口径100mmの砲の砲身長が2.2mである場合は「口径100mm・22口径」となる。
  2. 加農の軍隊符号
  3. 陸軍省副官 川原直一 『兵器名称ノ略称、略字規定中追加、改訂ノ件関係陸軍部隊ヘ通牒』 1942年3月12日、アジア歴史資料センター、Ref.C01005271500
  4. 陸軍技術本部 『八九式十五糎加農説明書』 アジア歴史資料センター、Ref.A03032151400、1940年
  5. 第一陸軍技術研究所 『九六式十五糎加農第二予備品』 アジア歴史資料センター、Ref.A03032092600、1943年
  6. 参謀本部 『張鼓峯事件鹵獲「ソ軍」兵器写真要覧』「10糎加農砲尖鋭弾々体」 1938年12月1日、アジア歴史資料センター、Ref.C01003423800
  7. 師団に隷属する野砲兵連隊などを意味する。
  8. 最初期の高射砲は野砲が転用された。
  9. 軍団に隷属する野戦重砲兵連隊や独立重砲兵大隊(独立重砲大隊)などを意味する。

関連項目