筒井順慶

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筒井 順慶(つつい じゅんけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名。得度して順慶と称する前は、室町幕府13代将軍足利義藤(後の義輝)偏諱により藤勝(ふじかつ)、藤政(ふじまさ)と名乗っていた。大和筒井城主、後に大和郡山城主。事績については『多聞院日記』に詳らかに記述されている。

生涯

出生から家督相続

大和国戦国大名筒井順昭の子として生まれた[1]。 母は山田道安の娘・大方殿。

天文19年(1550年)、父が病死したため、わずか2歳で家督を継ぐこととなる。当時の大和は松永久秀が隆盛を極めており、筒井氏と協力関係にあった十市遠勝が久秀の軍門に下るなど、筒井氏にとって厳しい情勢にあった。叔父の筒井順政が後見人として補佐を努めたが、その順政は久秀による大和侵攻が激しくなっていた永禄7年(1564年)に死去してしまった。

後ろ盾を無くした順慶の基盤が揺らいでいる所に、久秀が迅速な奇襲を仕掛け、順慶は居城・筒井城を追われた(筒井城の戦い)。この時、箸尾高春・高田当次郎といった家臣達が順慶を見限り出奔している。居城を追われた順慶は、一族の布施左京進のいる布施城に逃れ、しばらく雌伏の時を過ごした。一部の史料は河内へ逃れたと伝えるが、あまり信憑性はないと言われている[2]

後に順慶は布施氏の下で力を蓄え、離反した高田氏の居城である高田城を攻撃している。

筒井城争奪戦

巻き返しを図る順慶は、永禄9年(1566年)になると、果敢に松永軍に対する反撃を敢行する。順慶は三好三人衆と結託し、筒井城の奪還を企図する。4月11日から21日にかけて両軍の間で小競り合いが行われ、美濃庄城を孤立させて降伏させている。順慶と三人衆は勢いに乗り、筒井城へ肉薄する。対して久秀は大和を抜け河内に赴いて同盟関係であった畠山氏・遊佐氏と合流、三好義継と久秀が激突する。順慶はこの間隙を突いて筒井城の奪還を画策、筒井城周囲に設置された松永の陣所を焼き払うなどした。

焦燥した久秀は友・能登屋に斡旋させて体よく和睦を結び、5月30日に姿をくらました。「多聞院日記」「細川両家記」などによれば、久秀は筒井城の救援には向わなかったらしい。周囲の陣を焼き払い、外堀を埋めた順慶は本格的に城の奪還に着手、6月8日、ついに城の奪還を果たした。順慶が筒井城を奪還できた背景には、三人衆の進軍によって久秀の足場が揺らぎ、筒井に軍勢を差し向けられる余裕がなかったことが指摘される[3]

筒井城を奪還した順慶は春日大社に参詣した。この時、宗慶大僧都を戒師として藤政から陽舜房順慶と改名した(正式に順慶を名乗るのはこの時から)。翌永禄10年(1567年)には再び三人衆と結んで奈良にて久秀と刃を交えている。

この頃、織田信長の台頭が著しくなり、永禄11年(1568年)に15代将軍足利義昭を擁立して上洛、三人衆を駆逐して影響力が畿内一円に及ぶようになる。機敏な久秀は迅速に信長と誼を通じたが、これに対して順慶は久秀の打倒に専念するあまり、情報収集が遅滞した[4]。時流に乗ることに遅れた順慶を見限り、菅田備前守などの家臣が順慶から離反している。

そして、信長の後ろ盾を得た久秀は、郡山辰巳衆を統率して筒井城に迫る。順慶は奮戦したが衆寡敵せず、叔父の福住順弘の下へと落ちのびた。福住城に潜伏して雌伏の時を過ごしていた順慶だが、元亀元年(1570年)に十市遠勝の死によって内訌を生じた十市城を攻め落とす。さらに松永方の城となっていた窪之庄城を奪回し、椿尾上城を築城するなど、久秀と渡り合う為に着々と布石を打っていった。

翌元亀2年(1571年)になると順慶・久秀の関係は一層緊迫を強める。順慶は井戸良弘に命令して辰市城築城に着手、7月3日に完成した同城は松永攻略の橋頭堡となった。城の着工が迅速に行われた背景には、順慶を支持する地元の人々の経済的な支援があったと考えられる[5]8月4日には辰市城周辺で久秀・久通父子、三好義継らの連合軍と大規模な合戦に及び、これを蹴散らし松永軍に甚大な被害を与えた。敗戦した久秀は筒井城を放棄し、順慶は再び筒井城を奪還することに成功した。筒井城の奪還によって、信貴山城多聞山城を繋ぐ経路が分断され、久秀は劣勢に立たされることとなった。

織田信長に臣従

元亀2年11月1日、順慶は明智光秀佐久間信盛の斡旋をもってして信長に臣従し、その支援を得ることで大和における所領を守った。対する久秀は信長と反目して将軍足利義昭、三好義継、武田信玄などと結託していたが(信長包囲網)、順慶は久秀と和議を結び、北小路城に久秀・久通父子を招待して猿楽を催すなど表面上はしばらく円滑な関係が続いた。だが元亀3年(1572年)になると久秀は反信長の態度をますます顕在化させ、つかの間の和睦も破綻した。天正元年(1573年)になると信玄は病死、義昭が信長に追放、義継も信長に討伐され(若江城の戦い)包囲網は瓦解、久秀も降伏して信長の元へ戻ったが、その後はしばらく小競り合いが続く。

臣従後、順慶は信長傘下として主に一向一揆討伐などに参戦して活躍した。義継討伐では先陣を務め、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいては信長に鉄砲隊50人を供出、同年8月の越前一向一揆攻略にも5000の兵を率いて参戦した。また信長の臣従に際しその証として母親と家臣2人を人質として差し出している。

翌天正4年(1576年5月10日、信長により大和守護に任ぜられた。5月22日には、人質として差し出していた順慶の母が帰国した。母の帰国を許可されたことの返礼も兼ねて、順慶は築城中であった安土城を訪問、信長に拝謁し、太刀二振に柿、布などを献上し、信長からは縮緬や馬を賜っている。

天正5年(1577年)、順慶は他の諸将と共に反乱を起こした雑賀一揆を鎮圧した(紀州征伐)。同年、久秀が信長に対して再度謀反を起こすと、信貴山城攻めの先鋒を務めている(信貴山城の戦い)。手始めに片岡城を陥落させ、続いて信貴山城へ総攻撃が行われた。10月10日、遂に城は陥落、久秀父子は自害して果てた。信貴山城陥落については、順慶が本願寺の援軍と称して潜入させた手勢が内部から切り崩しを行い、落城に貢献したと『大和軍記』は伝えている。また、『大和志科』は、久秀の遺骸を順慶が回収し、達磨寺に手厚く葬ったと記述している。『和洲諸将軍伝』にも、久秀の遺骸が達磨寺に葬られた旨の記述があるが、ここでは久秀の遺骸を回収し葬った人物は「入江大五良」と書かれている。

久秀父子の滅亡もあって、天正6年(1578年)に大和平定が果たされた。同年、信長の命令により龍王山城を破却している。同年4月、播磨攻めに参戦。6月には神吉頼定が籠城する神吉城を攻撃している。帰国後の10月には、石山本願寺に呼応した吉野の一向衆徒を鎮圧。天正7年(1579年)には、信長に反旗を翻した荒木村重が篭る有岡城攻めに参加した(有岡城の戦い)。

天正8年(1580年)、居城を筒井城から大和郡山城へ移転する計画を立てていた所に、信長より本城とする城以外の城の破却を促す通達が寄せられる。順慶は筒井城はじめ支城を破却し、築城した大和郡山城に移転した。筒井城から大和郡山城へ拠点を移した根拠としては、筒井城が低地にあり、水害の影響を被りやすかったという問題があった。同年、やはり信長の命令により大和一帯に差出検地を実施している。これに伴い、岡弥二郎・高田当次郎・戒重ら、かつて松永久秀に追従していた筒井家配下の人物達が、信長に一度離反した咎で明智光秀らの主導で処断された。翌9年(1581年)には、かねてより確執があった吐田遠秀を闇討ちにして葬っている。

同年の天正伊賀の乱では他の武将と共に織田信雄に属し、大和から伊賀へと進攻、3700の手勢を指揮し、蒲生氏郷と共に比自山の裾野に布陣するが、伊賀衆の夜襲を受け、半数の兵士を失う苦戦を強いられる。この時、伊賀の地理に精通していた菊川清九郎という家臣が順慶の窮地を救ったと言われる。その経緯については『伊乱記』が詳しく描写している[6]

信長の死後

天正10年(1582年6月2日、明智光秀が信長を討ち取った本能寺の変が起こった。順慶は福住順弘・布施左京進・慈明寺順国・箸尾高春・島清興(左近)・松倉重信ら一族、重臣を召集して評定を行った。光秀は順慶が信長の傘下に入る際の仲介者で縁戚関係にもあり、武辺の多い織田軍団としては数少ない教養人同士として友人関係にもあった。そのため、光秀からは変の後即座に味方になるよう誘われた。

順慶は辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが、積極的には動かなかった。その後も評定を重ね、一度河内へ軍を差し向ける方針を立てたが、結局は食料を備蓄させて篭城する動きを見せた。6月10日には、誓紙を書かせて羽柴秀吉への恭順を決意した。同日、光秀の家臣・藤田伝五郎が順慶に光秀への加勢を促すよう郡山城を訪れたが、順慶はこれを追い返している。11日には、順慶が大和郡山で切腹したという風聞を始め流言蜚語が飛び交った。

光秀は親密な関係にあった順慶の加勢を期待して、洞ヶ峠に布陣し順慶の動静を見守ったが、順慶は静観の態度を貫徹した。洞ヶ峠への布陣は、順慶への牽制、威嚇であったとも解釈されている[7]。光秀が洞ヶ峠に出陣したことが後世歪曲されて喧伝され、順慶が洞ヶ峠で秀吉と光秀の合戦の趨勢を傍観したという、所謂洞ヶ峠の故事が生まれ、この「洞ヶ峠」は日和見主義の代名詞として後世用いられている。

結局光秀は13日に山崎で秀吉と刃を交えて敗死した(山崎の戦い)。光秀は謀反に際し、自らの与力的立場にある近畿地区の織田大名たちが味方してくれることを期待していたが、このうち18万石(大和の与力を合わせると45万石)の順慶と12万石の細川幽斎に背かれたことは、その兵力もさることながら、ともに名門で影響力も大きいこともあって致命傷となった。

14日、順慶は大和を出立して京都醍醐に向い、羽柴秀吉に拝謁した。この際、秀吉は順慶の遅い参陣を叱責したという。多聞院日記は、秀吉の叱責によって順慶が体調を崩し、その話が奈良一円に伝播して人々を焦燥させたという話を伝えている。27日、織田家の後継者を選別する清洲会議が実施され、順慶は他の武将達と共に列席している。7月11日には、秀吉への臣従の証として、養子(従弟、甥でもあった)定次を人質として差し出している。

光秀死後は秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵された。天正12年(1584年)頃から胃痛を訴え床に臥していたが、小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をおして伊勢・美濃へ転戦。この無理がたたったのか、大和に帰還して程なく36歳の若さで病死した。筒井家は定次が継いだ。

順慶は茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であり、自身が僧でもあった関係で(筒井家は元々興福寺衆徒大名化した家である)、仏教への信仰も厚く大和の寺院を手厚く保護したとも言われている[8]

順慶の重臣だった島清興は順慶の死後、跡を継いだ定次と上手くいかず筒井家を離れたが、後に石田三成の腹心となり関ヶ原の戦いに参加して勇名を馳せた。

筒井家は順慶亡き後31年目に、定次が豊臣家への内通の疑いにより改易・自害させられたことで絶家した。大名家としては滅亡したが、現在も真偽は別として順慶の子孫と伝えられている家は少なくない。近年山口県文書館所蔵の毛利家文庫のなかに順慶の没後に生まれた実子(順正)が存在したという記述があることが判明した。順正は安芸国で育ち、毛利輝元に仕官している。母は布施春行の娘(松)と推察され子孫は代々長州藩に仕官している。 作家の筒井康隆も、奔放な幻影で構成した小説「筒井順慶」の中でその1人と名乗り、歴史小説とはいえないものの丹念な取材を重ねて、戦国時代を高みから見おろす虚無的な知識人としての順慶像を示している(但し、ここに登場する作者自身もフィクションであって、現実の筒井康隆の家にそのような伝承はないという)。この虚無的な順慶像は永井路子の短編「青苔記」にも共通している。

家臣

脚注

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参考文献

関連作品

小説

関連項目

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  1. 『明智系図』には、明智光秀の弟・明智信教が順昭の養子となり、順慶になったと記されている。しかし、明智光綱の没年と順慶の生年がかなり離れていることや、その他の一級史料には書かれていないことから俗説とされている。
  2. 籔・P75
  3. 籔・P78
  4. 籔・P87
  5. 籔・P99
  6. 籔・P162 - P163
  7. 籔・P167
  8. 但し、天正8年には鉄砲鋳造の為に釣鐘を没収したり、興福寺の寺僧の処罰を命じられたりと、信長政権下では必ずしも寺社の保護ばかりを行っているわけではない。