アクセル・ローズ
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アクセル・ローズ (W. Axl Rose, 本名:William Bruce Rose, 1962年2月6日 -)は、アメリカのロックバンド、ガンズ・アンド・ローゼズのボーカリストである。インディアナ州ラファイエット出身。身長175cm。
"Axl Rose”という芸名は、後のガンズ・アンド・ローゼスのギタリスト、イジー・ストラドリンと組んだ最初のバンドである「A.X.L.」と、実父の名前の「ROSE」に由来する(現在は正式に改名)。
90年代初頭まで全盛を極めたあとは一時休眠状態にあったが、2001年頃より、再びガンズ・アンド・ローゼズとしてツアーを行ったり、アルバムをリリースしている。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第64位[1]。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第87位[2]。
性格
1980年代から1990年代初頭までの全盛期は、破天荒な問題児としてその悪名を轟かせた。イジーによると、有無を言わせないかのように暴れたかと思えば、次の瞬間世界で一番優しい男になると言っており、情緒不安定な一面もある。
その代表的なエピソードとして、1991年7月1日、『ユーズ・ユア・イリュージョン』のアルバムツアーの中で、ミズーリ州セントルイスで行われたライブでの出来事がもっと知られている。『ロケット・クイーン』の演奏中、アクセルが無断でビデオ撮影をしていた客に気付いて、警備員に止めるように促すも、これを無視されたため[3]、「オレが力づくで取ってやるよ!」と言うなり、ステージの上からその客に向かって飛びかかり、カメラを無理矢理奪い取ろうとした。更に、止めに入った警備員や観客と揉み合いになり、スタッフによってステージに引き戻されると、アクセルは「ありがとよ、役立たずのバカ警備員ども。俺はもう帰るぜ!!」と吐き捨てて、マイクをステージに激しく叩き付け、そのままステージをキャンセルしてしまう。これに不満を抱いた観客の怒りが爆発し、一部の者が暴徒と化して、ステージに駆け上って機材やセットを盗んだり、会場に備え付けのパイプ椅子やテーブルなどをあちらこちらに投げつけたりするなど、破壊行為が横行。会場は混乱状態に陥り、機動隊が駆けつける事態になった。この暴動事件で、推定60~80人が重軽傷を負い、計16人が逮捕された。なお、この事件による被害額は、合計120万ドルと見られている(20万ドルと言う説もあり)。なお、アクセル自身も、ツアー終了後、暴動直前にその客を殴り付けたことや、この事件の責任を問われる形で逮捕され、多額の保釈金を払うことになった。ただし、暴動とは直接的な関係がないとして、結果的にこの訴えは棄却され、アクセルには正式に無罪が言い渡されている。
また、自らのツアーで脱退したメンバーのTシャツを着ていた客が気に食わないとわざわざ脱がせたこともある。
1992年、東京ドーム公演でのエピソードとして、昼食に注文したステーキの焼き具合が指定のレアよりも火が通っていたと怒り出しシェフに皿を投げつけるも、その後に当公演ライブ映像収録の主任スタッフに涙を流しながらそのことを謝罪する場面をコンサートスタッフらに目撃されている。その後は、元モデルでもある彼女(エリン)に慰めてもらっていたという情報もある。相次ぐメンバーとのトラブルや脱退、"Guns N' Roses"のバンド名の所有権を巡ったメンバーとの法廷での泥仕合など、スキャンダルは絶えない。
かなりの遅刻魔。開演時間に数時間遅れて登場することはざらで、開演直前になってキャンセルしたことも。ゲフィンとのデビュー契約時も、「コンタクトレンズが見つからない」という理由で、相手の経営陣を2時間も待たせた[4]。最新アルバム『チャイニーズ・デモクラシー』の製作にも14年という年月を要している。
常に人間関係がうまくいかず、独裁者的なイメージがあるその背景には、幼い頃に実の父親が家を出て行ってしまい、義理の父親からは身体的虐待、性的虐待を受けていたという過去があるとされ、常に精神が不安定で、人を極度に信用できなくなってしまったのは、こういった暗い原体験があるからであろうと言われている。
音楽的特徴
スキャンダラスなイメージが先行しがちだが、ボーカル能力としては変幻自在で、曲に合わせて高音域から低音域まで幅広く使い分けることができる柔軟性を持ち合わせている。ソングライティングは、「ノーヴェンバー・レイン」や「イストレインジド」といった長編バラードを得意とする(「ノーヴェンバー・レイン」は、15歳の時に作曲)。また、コンサートではピアノの演奏も披露する。
最も尊敬するバンドの一つがクイーンで、フレディ・マーキュリー追悼コンサートにも出演。最高のアルバムは『クイーン II』と答えており、「オレが死んだらクイーンIIのアルバムを棺に入れてくれ」と述べている。
エルトン・ジョンと親交があり、1992年にロックの殿堂入りを果たしたエルトンのプレゼンターを担当したり、同年のMTV Video Music Awardsでは、ガンズ・アンド・ローゼズと「ノーヴェンバー・レイン」をセッションした。
歌は、聖歌隊で習った、と友人らに話している[5]。
元々はバリトンの普通の声で歌っていたが、ある時アクセルがシャワーを浴びながらナザレスの「ヘアー・オブ・ザ・ドッグ」を甲高い声で歌っているのをイジーと友人が聞きつけ、その特徴的な声で歌うように要請、これが特徴的な高音の始まりとなった[6]。
来歴
RAPID FIRE
1984年1月 ROSE
1984年春 HOLLYWOOD ROSE
1984年10月-11月 L.A. GUNS
1985年1月 HOLLYWOOD ROSE (NEW)
1985年4月 GUNS AND ROSES
1984年インディアナからL.A.にヒッチハイクで移住。当時はビル・ベイリーと名乗っていた。ホームレス状態でバンド活動を続けていた。働いていたビデオ店(タワー・ビデオ)の階段下がねぐらだったり、彼女や友人の彼女、スラッシュの実家などを転々とした。バンドメンバーも極貧状態で、1985年にガンズ・アンド・ローゼズのオリジナルメンバーで行った自主ツアーでは、移動はヒッチハイク、食料は道の脇の畑で野菜を盗んで食べるなどして飢えをしのいでいた。ガンズ・アンド・ローゼズを結成してからは快進撃で、わずか数年の間にスターダムへと駆け上がった。
タトゥー
右腕
上 AXL ROSE
中 デビュー前に付き合っていたモニークという女性
下 ガンズ・アンド・ローゼズのクロス
左腕
上 ROCKER(3度ほど改造)
下 VICTORY OR DEATH(AXLの座右の銘ともなっている)
エピソード
1989年に、MTV関係の授賞式の楽屋で、当時のメンバーイジー・ストラドリンがモトリー・クルーのヴィンス・ニールに殴られるという事件が起きた。理由は、当時ヴィンスと一時的に別居していた妻が、とあるクラブでイジーを引っ掛けようとして振られた腹いせにヴィンスを差し向けたとのこと。その後イジーとヴィンスは和解したが、アクセルは自分の一番の理解者であるイジーを傷つけられたことでヴィンスに大きな怒りを覚え、大変傷ついた様子。その後、何度かヴィンスに挑発的なコメントを投げかけていたが、ヴィンスから「テレビ中継の前で俺と喧嘩して決着を着けようぜ!!いつでも挑戦を受けてやる。」と言い聞かされ、さすがのアクセルも「身の危険を感じたので『新作のレコーディングで忙しいから無理』と言ってすぐに断った」と発言している。また、2006年のCNNでのインタビューの際にヴィンスは「それ以来俺はアクセルには会っていないし、現在は彼を殴ろうとは思っていない。」と発言している。また、イジーの発言を10数年に渡りノートに記録していたとされる。2000年辺りに、アクセルがイジーに電話をかけた際、「1982年にお前(イジー)はこう言った!」とノートをめくりながらイジーに詰め寄ったと、イジーがアクセル・ローズ批評伝内で明かしている。
2008年11月23日に発売されたガンズ・アンド・ローゼズのアルバム『チャイニーズ・デモクラシー』の売り上げが、当初の予想よりも期待外れであること(アクセルによるプロモーション活動が十分でなかったとの噂)を米国のザ・サン紙へ問われた際、モトリー・クルーのヴィンスは、「あんなに長い年月を掛けてレコーディングしたにも関わらず期待ハズレだったなんて、クレイジーにも程がある。また、このアルバムのツアーはキャンセルだろ?俺のダチ(DJアシュバ)が、奴のためにギターを演奏しに行って約3ヶ月もリハーサルをしたというのにも関わらず、アクセルの奴は1度も現れなかったらしいな。ルールその1、姿を見せろ!」とアクセルのレコーディングに対する態度を痛烈に批判し、「こんなことをし続けていたら、ファンがどんどん去って行く。奴(アクセル)はずっとこんな状態だ。それでも付いてきているファンだって“いい加減にしろ!もうやってられねーよ!”って、心では思っていると思うぜ。肝心のバンドのライブを見られないなら、ファンではいられないぜ」とも語っている。[7]
ニルヴァーナのカート・コバーンとは対立関係にあったが、元々はアクセルはニルヴァーナのファンであり、ガンズのツアーのサポートをニルヴァーナに頼んだことさえある。だが、ヘアメタルなどの商業的な作風のロックやへヴィ・メタルを嫌っていたカートはその依頼を拒否し、その後メディアに向けてガンズやアクセルに対する批判をぶつける様になり、両者の対立関係が生まれた。
また、同い年生まれのボン・ジョヴィのボーカリスト、ジョン・ボン・ジョヴィとも長くに渡り確執が続いていた。ジョンも数年前のインタビューで、13年間もレコードを出していないことを批判し、自身のキャリアには遠く及ばないと発言した。しかし、こうした2人の状況はアクセルの親友で、同じくジョンを最も嫌っていたセバスチャン・バックによって修復へと向かう。2006年に、ロンドンのバーでアクセルとワインを飲んでいたセバスチャンは、偶然にもそこにジョンがいることを発見する。この2人も昔、楽曲の版権問題でお互いを激しく中傷しあった間柄である。しかし、セバスチャンはジョンへと近づき、笑顔で久しぶりに挨拶をしたのである。驚いたジョンだったが、アクセルもその輪へと加わり、飲み会を始めたのである。ジョンはワインを2人に何本も振る舞い、アクセルもジョンのビジネスの才覚に興味を持ち、いろいろと質問し3人で談笑したのだという。
2012年 映画「ロック・オブ・エイジズ」で主演のトム・クルーズに演技指導を行った。
新生ガンズ・アンド・ローゼズとして
ガンズ・アンド・ローゼズのオリジナル・メンバーとしては、最後の一人。最近では性格も落ち着いてきたのか、彼の家で開かれたハロウィン・パーティの夜に、子ども達を驚かすところを目撃されている。しかし、2006年にはニューヨークで友人(ロザリオ・ドーソン)の27歳の誕生パーティに出席したアクセルは有名デザイナーのトミー・ヒルフィガーと殴り合いの乱闘を繰り広げた。原因はトミーのガールフレンドの飲み物が落ちそうだったため、アクセルがコップの位置を変えたところ、トミーが言いがかりをつけてきたために乱闘となった。[8] [9]また、6月27日にはスウェーデンのストックホルムのホテルにてセキュリティ・ガードの足に噛み付き、ロビーの鏡を割り逮捕された[9](4万クローナ(約64万円)の罰金を払って釈放、足を噛まれた警備員には1万クローナ(約16万円)を払った)[10]
元スキッド・ロウのセバスチャン・バックと親交があり、2006年のツアーに彼を帯同。声がでなくなったクライマックスにヴォーカルを代わってもらうなどした。バックのアルバム『エンジェル・ダウン』でゲスト参加もしている。
90年代のGN'R全盛期には、ショーがたった40分で終わるなどということもあったが、2009年の来日公演では、大阪・東京の両公演で3時間を超えるコンサートを披露。 [11][12][13][14]
脚注
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外部リンク
- Guns N' Roses Official Site ガンズ・アンド・ローゼス公式サイト(英語)
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- ↑ 後に、この客と警備員のほとんどが、古い付き合いの友人だったことから、その行為を見逃していたことが判明している。
- ↑ Reckless Road and the Making of Appetite for Destruction(マーク・カンター著)
- ↑ Reckless Road and the Making of Appetite for Destruction(マーク・カンター著)
- ↑ Reckless Road and the Making of Appetite for Destruction(マーク・カンター著)
- ↑ 「モトリー・クルー、アクセル・ローズの態度にご立腹」 BARKS、2009年8月25日。
- ↑ 「GNR、トミー・ヒルフィガーとひと騒動!?」 BARKS、2006年5月13日。
- ↑ 9.0 9.1 「ガンズのアクセル・ローズが警備員に”噛み付いて”御用に」 ABC振興会、2006年6月27日。
- ↑ 「アクセル、罰金を支払い釈放される」 BARKS、2006年6月29日。
- ↑ http://www.barks.jp/news/?id=1000056545
- ↑ http://www.barks.jp/news/?id=1000056661
- ↑ 「ガンズ・アンド・ローゼズ大阪公演、3時間超の熱狂」 BARKS、2009年12月17日。
- ↑ 「ガンズ・アンド・ローゼズ東京公演速報、3時間半ライヴの末、二度にわたって宙に弧を描いたアクセルのマイクの行方は?」 BARKS、2009年12月20日。