皇太子

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皇太子(こうたいし、テンプレート:Lang-en-short)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号[1]。あるいは、一般に、君主の継承者を指すことも多い。

概要

字義としては、皇太子とは、次期皇位継承者の第一順位にあたる、皇帝の男子の事である。

王位継承の第一順位の王子については、王太子(おうたいし)または王世子(おうせいし)のように言うこともある。「○太子」の言葉自体がいずれ「○」の地位を継ぐ「(男の)子」を意味するため、君主の地位がである場合には王太子の名称を用いるのが正確といえる。

しかしながら、現在の日本のマスコミによる報道などでは、対象が次期国王であっても「王太子」の語は用いられず、「皇太子」を用いるのが通常である。ただし歴史上の人物については、慣例に従って「王太子」の語も用いられる。また次期皇(王)位継承者が弟、孫であるなら、「皇(王)太弟」「皇(王)太孫」の名称を用いるべきともいえるが、実際にはひっくるめて「皇太子」の名称が用いられている。

なお、西欧の言語においては、「皇帝か国王か」「子か孫か弟か」に応じた称号の使い分けは見られない。西欧の言語でも君主の継承第一順位である女子(皇女/王女)については異なる称号(テンプレート:Lang-en-short)が用いられ、漢字文化圏では皇太女/王太女と表記されることがある(東アジアの実例としても、安楽公主について、皇太女に立てようという動きがあった)。

日本の皇太子

江戸時代以前

皇太子は、東宮春宮、または太子と表記され、「とうぐう」「ひつぎのみこ」「はるのみや」などと読まれた。なお、「東宮」の原義は皇太子の住まう宮殿のことであり、居所を呼ぶことで婉曲的に皇太子その人を指したものである。

朝廷では、皇位を継ぐべき皇子や、継承資格を有する皇子に大兄(おおえ)とつけて「大兄皇子」と敬称した。もっとも、大兄皇子と皇太子は必ずしも同義ではない。大兄皇子と敬称されたとしても、絶対的にその地位を保証するものではなく、同時に複数名存在することもあった。

皇太子は、必ずしも在位中の天皇の長男を指すとは限らない。歴史的に皇位は、長幼の序を重んじつつ、本人の能力や外戚の勢力を考慮して決定され、長男であれば必ず皇太子になれるとは限らなかった。それゆえ、皇位継承順位が明文化される以前には、皇太子は立太子された当今の子という意味を持つに過ぎない。

また、南北朝時代から江戸時代中期にかけては、次期皇位継承者が決定されている場合であっても、「皇太子」にならないこともあった。これは、当時の皇室の財政難などにより、立太子礼が行えなかったためである。通例であれば、次期皇位承継者が決定されると同時に、もしくは日を改めて速やかに立太子礼が開かれ、次期皇位継承者は皇太子になる。しかし、立太子礼を経ない場合には、「皇太子」ではなく、「儲君」(ちょくん、もうけのきみ)と呼ばれた。

南北朝時代において、南朝では最後まで曲がりなりにも立太子礼が行われてきたとされている。これに対して、北朝においては、後光厳天皇から南北朝合一を遂げた遙か後の霊元天皇に至るまで、300年以上に亘って立太子を経ない儲君が皇位に就いている。

一方、皇太子となっても、諸般の事情により皇位に就くことができなかった例もある。これには、即位以前に薨御された例(菟道稚郎子皇子聖徳太子草壁皇子(岡宮御宇天皇)など)、自ら辞退した例(敦明親王(小一条院))、皇太子位を廃されて廃太子となった例(他戸親王早良親王(崇道天皇)など)がある。特殊な例として、大海人皇子は、皇太子位を辞退して出家した後、壬申の乱を経て天武天皇として即位した。

当今の弟が次期継承者である場合には、皇太弟(こうたいてい)、また当今の孫である場合は皇太孫(こうたいそん)と呼ばれる場合がある。皇太子には、ほとんどの場合において父が(当今に限らず)天皇である親王皇子)が就いているが、例外が10例あり、そのうちの8例までが天皇の孫である(仲哀仁賢文武(但し母がのちの元明天皇)・淳仁光仁の5天皇と、道祖王康仁親王の2廃太子、及び即位前に夭折した慶頼王)。3世以下の王が立太子した例はない。女性が皇太子となったのは過去に内親王が1例あるのみである(奈良時代女帝孝謙天皇)。初代神武天皇も立太子を経て即位したと伝えられる。

明治時代以降

1889年明治22年)、皇室の家内法として皇室典範が定められ、皇位継承順序が明文化された。この旧皇室典範15条では、儲嗣タル皇子を皇太子としていた。1947年昭和22年)に法律として定められた現行の皇室典範8条前段では、皇嗣たる皇子が皇太子とされている。「儲嗣」もしくは「皇嗣」は、いずれも皇位継承順第一位の者を指し、「皇子」とはこの場合、当代天皇の子で男子を指す。

このため、昭和天皇践祚後、1933年(昭和8年)の継宮明仁親王誕生までは、弟宮である秩父宮雍仁親王が皇位継承順第1位であったが、皇太子・皇太弟とは称されず、一般の皇族のままだった。

また、皇位継承順序の変更は、「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキ」(旧典範9条)、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるとき」(現典範3条)のみに皇室会議の議(旧典範下では皇族会議の議および枢密顧問への諮詢)により許されている。

そのため、皇室典範制定以前と異なり、立太子の礼自体は皇太子の地位の要件ではない。立太子の礼は、天皇における即位の礼と同様、内外に地位を宣明するための儀式である。かつては、幼少の儲君の立太子の礼も行われた。これに対して、現皇室典範制定後は、皇太子の成年を待って立太子の礼を行う。皇太子、皇太孫の成年は18歳とされている(旧典範13条、現典範22条)。

旧皇室典範の下では、立太子の礼は2回行われた。

現皇室典範の施行後は、立太子の礼は2回行われている。

また、成年の皇太子は、摂政就任順の第1位でもあり、1921年(大正10年)11月以降、1926年(大正15年)の大正天皇崩御まで当時の皇太子裕仁親王が摂政に就いた例がある。(詳細は、摂政の項を参照)

皇太弟・皇太甥・皇太孫

皇室典範には、皇太弟や皇太甥などに関する記載はなく、仮に皇位継承順第1位の者が在位中の天皇の弟または甥の場合でも、その者は一般の皇族(親王または)という扱いになる。

「皇太孫」は皇室典範に記載があり、皇太子不在の際の「儲嗣タル皇孫」(旧典範15条)、「皇嗣たる皇孫」(現典範8条後段)を言う。「儲嗣」もしくは「皇嗣」は、いずれも皇位継承順第1位を指し、「皇孫」とはこの場合、在位中の天皇の孫を指す。

中国の皇太子

そもそも太子の語は中国に由来するものであり、王や諸侯の後継者が太子と呼ばれた。史上最初に皇帝を名乗ったのは始皇帝であり、始皇帝の時代には皇子の扶蘇が太子として立てられていたので、史上最初の皇太子(帝の太子という意味での)は扶蘇であるということになる。もっとも、始皇帝の没後に趙高らの陰謀で排除されたため扶蘇は即位していない。

特定の皇子を立太子することにより、皇帝が太子以外を寵愛して後継者争いが起こる、皇太子以外が功績抜群であるため派閥抗争が起こる[2]、皇太子が地位に安住して佞臣を近付け修養を怠る、等の弊害がときにみられた。とはいえ、皇帝が絶大な権力を持つ中国において、皇太子を指名しないことはますます派閥抗争の激化などの弊害を招くため、皇太子制は継続されてきた。清の雍正帝はこれらの弊害を正すために太子密建の制を導入し、秘密裏に皇太子を指名して皇帝没後に開封することとした。

ヨーロッパ大陸諸国の王太子・皇太子

日本語の「(男性の)皇太子」にあたる語は、英語ではCrown Prince、ドイツ語ではKronprinz、スペイン語ではPríncipeである。これは実際にドイツなどで称号として用いられていた。

この語は、今日では主にスカンディナヴィア諸王国の王太子の呼称として用いられる。現在のノルウェーの王太子ホーコンH.K.H. Kronprins Haakonと呼ばれ、これは英語に訳すとHRH Crown Prince Haakonとなる。

一方、神聖ローマ帝国の皇太子には「ローマ人の王(Rex Romanorum)」の称号が授けられていたが、これはハプスブルク家により帝位が事実上世襲化された後のことである。ハプスブルク家の皇帝は、次期皇帝としての「ローマ人の王」の称号を自家の後継者に与えることで、帝位の事実上の世襲を維持した。これとは異なる称号であるが、フランス皇帝ナポレオン1世も息子ナポレオン2世を「ローマの王」に任命している。

オランダスペインなどにおいても、貴族としての儀礼称号が法定推定相続人に与えられる。オランダ王太子の称号である「オラニエ公(Prins van Oranje)」は、オランダ王家であるオラニエ=ナッサウ家当主が、オランダ王国成立以前には南フランスのオランジュ(Orange、オランダ語でオラニエOranje)の領主・オラニエ公でもあったことに由来する。スペインの王太子は「アストゥリアス公(Príncipe de Asturias)」の称号を持つ。

フランス王国では王太子に「ドーファン(dauphin)」の称号が与えられた。元々はフランス南東部のドーフィネ(Dauphiné)地方の領主の称号であったが、1349年に同地方を併合して王太子領として以降、王太子の称号となった。

ロシア帝国では、上記の諸国のような貴族的称号ではないが、皇太子に対して「皇帝(ツァーリ)の息子」という意味の語である「ツァレーヴィチ(царевич)」「ツェサレーヴィチ(цесаревич)」という呼称が用いられた。

なお、日本のメディアでは、欧州王室の皇太女の身位について、皇太王女として表記したことがある[3]

イギリスの王太子

イギリスでは王位継承に長子相続制を採用しており、欠格事由のない限り、王の第1子が法定推定相続人となる。王の第1子が男性である場合には、プリンス・オブ・ウェールズコーンウォール公爵ロスシー公爵の称号が授けられる。第1王位継承者が女性の場合には、この称号は付与されない(例えば、エリザベス2世は王位継承前には「エディンバラ公妃エリザベス王女(The Princess Elizabeth, Duchess of Edinburgh)」と呼ばれていた。)。

イギリスには王太子 (Crown Prince) という称号はないため、プリンス・オブ・ウェールズの称号と、王太子という呼称はしばしば同一視される。ちなみに日本では、王太子ではなく皇太子と表記・報道される事が多く、現プリンス・オブ・ウェールズも「チャールズ皇太子」と呼ばれる事が多い。

東アジア諸国の皇太子・王太子

朝鮮半島においては、高麗モンゴル干渉期から李氏朝鮮後期まで長らく他国の冊封体制下にあったため太子の称号が使えず、国王の継承者は「王世子」と呼ばれていたが、日清戦争の結果、下関条約が結ばれた事によりの冊封から外れ、国号を大韓帝国と改めた際に「皇太子」を使うようになった(国王も大韓帝国皇帝となった)。

しかし韓国併合により朝鮮は日本の領土となり、旧皇帝家は日本の王族となり、旧皇太子は王世子となった(前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為シ皇太子及将来ノ世嗣、太皇帝及各其儷匹ノ称呼ヲ定メ並ニ礼遇ノ件)。

琉球王国においては、王世子は中城間切を領地としたので中城王子と称した。

サウジアラビアの王太弟

2014年現在のサウジアラビアの場合は、国王の息子ではなく、弟が次期王位継承者となっている。初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード一夫多妻制で、35人の継承権を持つ子供たちが居るため、2代目から6代目のアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ現国王までは兄弟であり、初代国王の孫の世代への継承は行われた事は無い。また初代国王の孫の世代への継承権については明文化されておらず、将来の継承における不安要素となっている。

従って、現在における次期王位継承者スルタン・ビン・アブドルアジーズ・アール・サウードの地位は「王太弟」という事になる。しかし日本の外務省はスルタン・ビン・アブドルアジーズ・アール・サウードに対して「サウジアラビア王太弟」ではなく「サウジアラビア皇太子」と表現している[4]

脚注

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参照文献

文献資料

  • 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X
  • 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059

報道資料

  • 『読売新聞』2000年5月31日東京朝刊
  • 『読売新聞』2004年4月18日東京朝刊

関連項目

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  1. 新村出広辞苑 第六版』(岩波書店2011年)952頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂2006年)858頁参照。
  2. 例えば唐の高祖の皇太子は長男の李建成であったが、軍功に優れた次男の李世民と争いになり、結局玄武門の変で李世民にによって殺害された。
  3. 例えばスウェーデンヴィクトリア (スウェーデン王太子)とオランダのユリアナ (オランダ女王)など。関連報道として「国内で高い人気を誇る「スウェーデン王室」」欧州王室改革のモデル」『読売新聞』2000年5月31日東京朝刊6頁「[追悼抄]3月 ベアトリックス女王の母・ユリアナ前女王」『読売新聞』2004年4月18日東京朝刊30頁参照。
  4. 外務省 スルタン・サウジアラビア王国皇太子薨去に際しての弔意メッセージの発出