敦明親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

敦明親王(あつあきらしんのう、正暦5年5月9日994年6月20日) - 永承6年1月8日1051年2月21日))は、第67代三条天皇の第一皇子、母は藤原済時の女・皇后藤原娍子

経歴

正暦5年(994年)、皇太子居貞親王(後の三条天皇)の第一王子として生まれる。父の三条天皇は、長く年下のいとこである一条天皇皇太子であった。寛弘3年(1006年)11月、元服。この後、藤原顕光の娘延子と結婚する。寛弘8年(1011年)、父三条天皇が践祚。親王宣下を受け、式部卿となる。

三条天皇は、藤原道長の孫にあたる一条天皇の第2皇子・敦成親王(後一条天皇)を皇太子としていた。道長は三条天皇に対し、早期に譲位するよう圧力をかけ、長和5年(1016年)1月29日に三条天皇は退位。天皇の強い要望で、敦明親王は後一条天皇の皇太子となった。しかし、翌年5月に三条上皇が崩御すると、道長はまたもや敦明親王に圧力をかけていた。一方の親王側も14歳も年下の天皇の皇太子では次期天皇としての即位の可能性は低いと考え、自ら皇太子廃位を願い出た。これにより、寛仁元年(1017年)8月9日に皇太子を辞退、同25日に道長の計らいで小一条院太上天皇の尊号が贈られ、いわゆる准太上天皇としての処遇を得る一方で、道長の娘寛子(母・源明子)を妃に迎える。更に家司として受領随身を受け、親王所生の子供達が三条天皇の猶子の資格として二世王でありながら親王宣下を受けるなど破格の待遇を受けた。

しかし、これによって親王に捨てられる形となった妻・延子は悲しみの余りに寛仁3年(1019年)に急死し、続いてその父親の左大臣藤原顕光も、治安元年(1021年)失意のうちに病死した。顕光父娘はその後怨霊になって道長一族に祟ったとされ、人々は顕光を「悪霊左府(左大臣)」と呼んで恐れたと伝えられている。

その一方で、親王に関しては短慮な振舞いが多く、藤原実資の『小右記』には親王に対する批判が立太子以前より多く記されている。例えば長和3年(1014年)6月16日には加賀守源政職に、12月8日には右中弁藤原定頼に暴行を振るったことが記されている。また、藤原行成の『権記』にも皇太子辞退の報を受けて、顔相に詳しくないと前置きしながら「無龍顔」(天皇の相ではなかった)と述べている(寛仁元年8月8日条)。

妃・王子女

テンプレート:特殊文字

系図

テンプレート:皇室平安中期

参考文献

  • 倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば―』ミネルヴァ書房、2010年

関連項目