長坂光堅

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長坂 光堅(ながさか みつかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将甲斐国武田氏の家臣で譜代家老衆。小笠原氏庶流にあたる。

出家名は長閑斎釣閑斎、ちょうかんさい)。別名に虎房(とらふさ)、頼広(頼弘)(よりひろ)があるとされるが、いずれも主君武田氏当主からの偏諱が用いられた名前であると思われる。嫡男に奥近習六人衆に数えられる昌国(源五郎[1])、次男に今福昌常今福浄閑斎養子)がある。武田晴信の乳兄弟ともいわれる。

生涯

永正10年(1513年)に生誕したとされる。6年前(永正4年(1507年))に主家・武田家では武田信直(のち信虎)が新たな当主となり、武田一族の内紛や今川氏大井氏など近隣の勢力との和睦といったように、甲斐統一を着々と進めていた。

そんな虎房(のち光堅)が史料に登場するのは、当主が信虎から子の晴信(後の信玄)に変わった後、天文年間の信濃侵攻の頃からである。この頃から本格的な活動が見られ、はじめは足軽大将として天文12年(1543年)5月諏訪郡代となった板垣信方を補佐する上原在城衆となり、同郡上原城長野県茅野市)に入城する。天文17年(1548年)の上田原の戦いにおいて信方が戦死すると後任の諏訪郡司(郡代)となり上原城に派遣され、翌天文18年には諏訪郡支配の新拠点となる高島城(長野県諏訪市)へ入城する。(以上は「高白斎記」に拠る)。

越後上杉氏との北信地域を巡る抗争が顕著になると、天文22年(1553年)には跡部信秋らと牧之島の国衆香坂氏のもとへ派遣されている。また、同年10月5日には光堅の子昌国(源五郎)と武田家臣真田幸綱(幸隆)息女との縁組が行われている(「高白斎記」)。翌天文23年9月6日には遠江国の国衆天野景泰への使者を務めている。弘治3年(1557年)の第三次川中島の戦いにおいては、日向虎頭(大和守)とともに越後国の上杉謙信の侵攻に備えた北信地域の探索を命じられているほか、同年11月6日には三枝虎吉室住虎光らと奉行人としての活動も見られる(『戦国遺文武田氏編』 - 578号)。永禄2年(1559年)2月に主君・武田晴信が出家すると、これに倣って光堅も出家、「釣閑斎(長閑斎)」と称する。永禄5年(1562年)に信玄の4男勝頼が高遠城主となると(「甲陽軍鑑」)、長閑斎(光堅)はこれを武田家嫡男武田義信へ伝える使者を務めている。元亀元年には春日虎綱(高坂昌信)とともに栗田鶴寿への使者を務めている。

早くから勝頼との関係は深かったようであり、元亀4年(1573年)の信玄没後は、武田信豊、跡部勝資らとともに後を継いだ勝頼に引き続いて重用されたという[2]

甲陽軍鑑』では天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて、信玄以来の家臣である山県昌景内藤昌豊馬場信春ら宿老たちが敵の陣城・予想外の大兵力を理由に撤退を進言したものを、長閑斎(頼広)は攻撃するように進言して武田軍惨敗の原因を作ったという記述がある。この軍監の記述には、長篠滞陣中の勝頼から駿河まで来ていた「長閑斎」宛の書状が現存する事から、長坂は長篠には参陣していないとして否定的な説があったが、近年では、この書状の宛名「長閑斎」が長坂釣閑斎光堅(頼広)ではなく今福長閑斎友清に比定される可能性が提唱されている。[3]因みに長坂光堅は文書上では「釣閑斎」と表記されている。この戦いでは三男の英信が参戦して戦死している。

『軍鑑』では天正6年(1578年)に越後国上杉謙信死後、勝頼が御館の乱において上杉景勝甲越同盟を結んで資金援助を受けたが、長閑斎はその金を一部横領していたという記述がある。高坂昌信は勝頼に長閑斎を追放するように提言したが、光堅の甘言にまどわされていた勝頼は受け入れなかったという話だが、文書上からは上杉氏との取次は北信・東信の責任者であった小諸城将・武田信豊が務めており、『軍鑑』の記述には確実性が無いことが指摘されている[4]

『軍鑑』では天正10年(1582年)に甲州征伐が始まると、長閑斎は勝頼の軍から密かに離れて甲斐国に逃亡したが、織田軍の厳しい追討を受けて捕らえられ首を切られて殺されたとしているが、文書上からの検討においては勝頼に従い殉死したものであると考えられている。享年70。

脚注

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  1. 義信事件に連座し誅されたのは、嫡男の源五郎ではなく、従弟(父・昌房の弟の長坂勝房の子)の長坂勝繁(甲斐国志、上野晴朗「定本武田勝頼」)。永禄9年(1566年)8月23日付の「下之郷起請文」に長坂源五郎の署名がある。
  2. 『軍鑑』に拠れば、信玄は光堅を「口だけしか動かない男」としてあまり重用せず、むしろ嫌っていたという。
  3. 平山優「長閑斎考」『戦国史研究』第58号、2009
  4. 『軍鑑』によれば、光堅は跡部勝資とともに景勝家臣斎藤朝信を通じて賄賂を受け取ったとしている。