成瀬正肥
成瀬 正肥(なるせ まさみつ、天保6年12月12日(1836年1月29日)- 明治36年(1903年)2月4日)は、江戸時代末期(幕末期)の尾張藩の附家老。尾張国犬山藩の第9代(最後)の藩主(ただし、藩主として認められたのは1868年からである)。
丹波国篠山藩主・青山忠良の三男。正室は成瀬正住の娘。子は成瀬正雄(長男)、成瀬美雄(次男)、娘(中山孝麿室)、娘(近野某室)。弟に下野国黒羽藩の第14代藩主の大関増徳(増式)がいる。幼名は欣之助、小吉。号は双山。官位は隼人正。
安政2年(1855年)7月に正住の娘を娶り婿養子となり、安政3年(1856年)12月に従五位下主殿頭に叙任、安政4年(1857年)に家督を継ぎ、隼人正に転任した。安政5年(1858年)に第14代尾張藩主・徳川慶勝が将軍継嗣問題と条約勅許問題(後に日米和親条約に至る)に巻き込まれて大老井伊直弼から隠居謹慎を命じられ、弟の第15茂徳が尾張藩主となると藩政から遠ざけられ、もう一人の附家老竹腰氏の一派が藩政を掌握して幕府寄りの政策が採られた。後に尾張派の支持により復権し、文久3年の徳川家茂の上洛には前藩主慶勝とともに入京して朝幕関係の調整にあたった。8月に茂徳が隠居して慶勝の子の義宜が尾張藩の家督を継ぐと、再び慶勝-正肥のラインが尾張藩政を掌握した。。[1]
元治元年(1864年)8月に元尾張藩主・徳川慶勝が第1次長州征伐で征長総督となったときの補佐役となり、10月26日に大物見として1,150人の兵を率いて京都を進発、広島には11月7日に到着した。広島では11月14日に国泰寺において、責任を取って切腹した長州藩の家老・国司親相、[[福原元たけ|福原元テンプレート:CP932フォント]]、益田親施の首実検を慶勝の名代として担当した。慶応元年(1865年)1月に広島を引き払って帰京した。慶応2年(1866年)1月に長州再征では後備心得を命じられた慶勝が病のため、代わって11月に義宜と補佐の正肥が上洛した。明治元年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは慶勝に従って上京していた正肥は参内して南門警備を担当し、5日には朝廷の命令で慶勝の代わりに二条城を接収した。24日に朝廷から独立大名として認められ、3月に参与会計事務局権判事に任命され、閏4月には京都を進発して尾張に帰国し、信濃鎮定のために5,700人の尾張兵を率いて塩尻から甲府へ進んで鎮撫にあたった。その後、別働隊を含み、信濃・越後・東京の各地へ分離した部隊について、正肥は塩尻を本営として指揮し、6月8日に尾張に帰国した。明治2年2月には版籍奉還を願い出、6月には犬山藩知事を命じられた。[2]
正肥は王政復古の大号令の際に朝廷から正式に藩主として認められた。それまで犬山藩は尾張藩の附家老であり、立場としては陪臣であり、正式に大名としては認められていなかったのである。ただしそれも、1871年の廃藩置県までという短い間であった。華族制度発足後は男爵となり、1891年4月23日には子爵に陞爵した。
1903年に死去した。法号は興徳院殿高節英嶽大居士。墓所は名古屋市中区栄三丁目の白林寺。
脚注
参考文献
- 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X