「なんば花月」の版間の差分

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2014年6月29日 (日) 21:26時点における最新版

なんば花月(なんばかげつ)は、かつて存在した吉本興業の演芸専用劇場。現なんばグランド花月(NGK)の前身に当たるが、場所は現在のNGKと異なり高島屋本店向かいの南海通りにあり、なんばグランド花月オープン後も暫く併用されていた。第二次世界大戦後の吉本興業は京都花月うめだ花月、なんば花月を拠点としていた。1988年(昭和63年)5月31日に閉館。跡地はスイング吉本ビルになっている。

沿革

  • 戦前期は「大阪花月劇場」(通称・大花)と称し、吉本の主力劇場であったが、演芸と言うよりは実演劇場として位置付けられていた。
  • 戦後の1946年、洋画専門館「千日前グランド劇場」として再開場。当初はバラック建てだったが、のち本格的に改築する。
  • 1962年、「グランドボードヴィル」を謳い文句とした新しい劇場・なんば花月劇場として再開場。朝日放送と優先中継契約を結び、演芸や吉本新喜劇舞台中継などが行われた。
  • 1988年、建物の老朽化となんばグランド花月への統合に伴い、5月31日で閉館した。

劇場について

  • 収容人数は立ち見を含めて約千人程度(座席数は七百数十席と言われていた)と大規模であった。それでも、1980年前後の漫才ブームでは詰めかける観客が入りきれず、楽屋や舞台袖にまで観客を入れていた。また、出入口が1か所しかなく、芸人も観客も同じ場所から出入りしていた。そのため、公演終了後に劇場の外でお目当ての芸人が出てくるのを待ち受ける観客が多く見られた。
  • 番組は上席(1 - 10日)・中席(11 - 20日)・下席(21 - 30日)と10日ごとに替わり、1日2回公演が原則ながら日祝日やゴールデンウィーク、夏休みなどは3回公演も行った。入れ替え制はとらなかった。なお、1回目と2回目の出演者は原則同じであったが、出演者に営業の仕事が入っていたり、放送番組の仕事があったりする場合はこの限りではなかった。また、31日がある月はその日だけの特別興行を行った。
  • 番組構成は若手芸人から始まり、漫才数組に諸芸が入るといった物。諸芸は落語・漫談・講談・浪曲・手品などで、出番はは併せて1~2組程度であった。落語は毎回組まれていたものの、講談や浪曲は滅多に組まれていなかった。中入りに代わる物として「ポケットミュージカルス」という出し物があり、吉本コメディアンのコントと吉本専属歌手の歌を組み合わせたバラエティショウがあった。トリは漫才でも落語でもなく、吉本新喜劇の公演であった。なお、演芸とポケットミュージカルス、吉本新喜劇の合間には一度緞帳が下りていた。
  • 吉本新喜劇の演目はうめだ花月京都花月とは異なるものを掛けていた。これはうめだ花月の舞台中継がMBSテレビで行われていたのに対し、なんば花月の舞台中継はABCテレビで行われていたため、内容が重複しないように配慮したものである。
  • 劇場運営は吉本興業が採用した進行係が行い、東京の寄席の様に噺家の前座が行うようなことはなかった。また、角座と異なりお茶子が舞台に上がることもなく、落語のセッティングなどもすべて進行係が行った。
  • 落語の場合、下座音楽は噺家の前座や下座専門の囃子方が行うのではなく、テープで代用した。また舞台上には可動式の赤毛氈を貼り合わせた大きな落語用の台座が置かれ、噺家はそこに登って口演した。なお、見台は置かなかった。
  • 当時舞台の出演者の表示には、めくりが使われていた(現在は舞台後方にあるスクリーンに表示もしくは、舞台横の壁に看板が設置される)。この「めくり」は、芸人が落書きをしたりしており、その多くを河内家菊水丸が所持している。
  • 日本芸能界初のプロ和太鼓集団であった「王将太鼓」の「なんば花月」における舞台初日は、1966年(昭和41年)5月1日である。(関連人物:高山正行

主な出演者

漫才

落語

ショウ

漫談

奇術

音頭・浪曲・講談・その他

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