宗谷 (船)

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船の科学館に展示される宗谷
艦歴
発注 ソビエト連邦
起工 1936年10月31日
進水 1938年テンプレート:02月16日
竣工 1938年テンプレート:06月10日
退役 1978年[[10月2日|10月テンプレート:02日]]
戦歴 潜水艦2隻撃退
戦闘機撃墜1
その後 記念艦として船の科学館で公開
性能諸元
排水量 2224トン(新造時)
全長 82.3m
全幅 12.8m
平均吃水 5.8m( 軍艦時代)
機関 1450馬力スクリュー1軸
最大速 12.5ノット(軍艦時代)
航続距離 5.000海里(8.5ノット)(軍艦時代)
乗員 67人(燈台補給船時代)
その他 ロイド船級100A型1耐氷構造 

(地領丸)

宗谷(そうや、船番号: PL107)は、日本砕氷船である。日本海軍では特務艦海上保安庁では巡視船として服務した。日本における初代南極観測船になり、現存する数少ない旧帝国海軍艦艇である。現在でも船籍を有しており、船舶法の適用対象で、必要であればを解いて航行できる。船名は北海道北部の宗谷岬樺太の間にある宗谷海峡にちなんで名づけられた。

歴史

商船

1936年昭和11年)9月18日川南工業株式会社香焼島造船所はソビエト連邦通商代表部より、耐氷型貨物船3隻の発注を受けた[1]。これはソ連から北満鉄路を買収した契約の一部であった[2]12月7日 、耐氷型貨物船第107番船として川南工業株式会社香焼島造船所(長崎県)にて起工。1938年(昭和13年)2月16日、川南工業社長の長女 川南幸子の手によってソ連船ボロチャエベツ(Volochaevets)として進水[3]。姉妹船ボルシェビキ(Bolshevik)1937年(昭和12年)8月10日にコムソモーレツ(Komsomolets)は1937年、昭和12年10月20日にそれぞれ進水していた。しかし、第二次世界大戦直前の情勢に鑑み、ソ連への引渡はなされず商船地領丸として竣工した。同じ様にボルシェビキは「天領丸」、コムソモーレツは「民領丸」となった。なお3隻はロイド船級協会の規格に沿った性能であることが求められたが、1938年(昭和13年)2月10日、一番船ボルシェビキをロイド船級協会極東主任検査官立会いのもとで公試運転したところ、性能が規定値に満たず不合格となった。[4]

本船と姉妹船はソ連向けに建造された耐氷能力と、当時としては珍しい最新鋭のイギリス製音響測探儀(ソナー)が装備されていた民間貨物船だったため、大日本帝国海軍の興味を引いていた[5]。時勢を睨み測量業務ができ、なおかつ大量輸送能力を持つ船を捜していたのである。だが本船はソ連との契約問題がこじれたため直接日本海軍には就役せず、民間会社の貨物船として運行した[6]。栗林汽船、日清汽船等にチャーターされ本土と朝鮮半島、千島列島で輸送業務に就き商船として最後の経歴は川南工業が設立した辰南汽船に所属していた。この間日本の戦略が南方対米重視となったこともあり3隻を海軍へ売却する計画は消え1隻のみが売却されることとなった。

特務艦

1939年(昭和14年)11月に買い上げが決まり。12月、日本海軍は227万5000円を購入費として計上した。1940年(昭和15年)2月20日、海軍艦政本部によって「宗谷」の名が与えられた。 この日を正式購入日とする説がある。[7](海軍艦名としては二代目、初代はロシアの巡洋艦ヴァリャーグ日露戦争で沈没後、日本が浮場して宗谷と命名し艦籍に編入された) 石川島造船所にて、8cm単装高角砲1門、25mm連装機銃、測探儀室、測量作業室増設などの改装を行う。6月4日特務艦として改装工事完了。測量・輸送任務につく海軍は老朽化した砕氷艦「大泊」の不足を補う役目を本艦に期待し、(砕氷艦としては新鋭砕氷艦ができるまでの繋ぎ)千島・樺太など北洋水域の後方補給・物資輸送および同海域強行測量艦として運用するつもりだった。初代特務艦長は山田雄二中佐。塗装は灰色だった。 12月20日、ソ連通商部は東京民事裁判所に提訴し、前払い建造費の返還と違約金の支払いを求めた。[8]本船の購入問題はソ連政府がモスクワ駐在大使東郷茂徳に解決をせまるほどの大問題に発展する[9]。裁判中にノモンハン事件が発生している。結局、裁判は1941年1月にソ連政府と建川美次大使との交渉で政治決着した[10]

6月4日、宗谷はドックを出て横須賀に向かった[11]。用途は特務艦(測量、輸送、砕氷を行う測量艦)で、横須賀鎮守府部隊付属となる。最初の任務は北樺太の調査だった。10月11日、紀元二千六百年特別観艦式に拝観艦の一隻として参加。(番外列13隻のうち9番目)[12]10月22日、新艦長・松本亀太郎中佐が着任。 11月12日、測量、気象、海象観測任務のためサイパン島に赴く。[13]12月16日測量を終え横須賀に向けて出航。[14] 1941年(昭和16年)2月8日再びサイパンに赴き3月末まで調査を続けて横須賀に帰還。[15]5月7日ポナペに向けて出港した。 5月24日、コロニアに基地を置きポナペとトラック島の間を測量をおこない[16]7月30日トラック島へ戻った。 8月26日、サイパンにて久保田智・中佐が艦長が着任。(海軍辞令公報では8月11日付)その後、東カロリン諸島、トラック諸島、ポナペ島の測量をおこない。11月1日サイパンを出港、11月13日横須賀帰港し入渠した。[17] 1941年12月8日、横須賀で日米開戦の報を受ける。12月29日輸送物資を満載した宗谷はトラック島向けて抜錨した。

1942年(昭和17年)1月11日夏島トラック泊地で輸送物資の荷揚げ。17日第4艦隊に編入され[18]19日日本へ向けて出港し、29日横須賀に入港してドッグ入り。2月2日出渠と同時に第四艦隊に搬送する物資や測量班員を乗せ14日出港した。24日トラック島到着。28日ポナペ経由でラバウルに向かった。 3月8日ラバウル到着[19]10日から湾内の測量に着手した。 22日マッサバ掃蕩作戦に参加この時、第八特別根拠地隊司令官・金沢正夫中将が乗座したため宗谷に初めて将官旗が掲げられた。そして宗谷は測量艇を用いて水源地を確保した。[20]28日、八特根陸上警備隊を乗せた宗谷は、駆逐艦睦月弥生卯月とともにショートランド島へ向かった。30日午前4時、ショートランド泊地に到着し陸戦隊を上陸させ通信機器を揚陸して通信所を仮設した後、水路測量に取り掛かった直後、双発の飛行艇に襲撃されるが駆逐隊が応戦し撃退した。同日午後4時キエタに向かった。31日午前1時、ブーゲンビル島東側キエタ港に進入、艦内からも陸戦部隊を編制し部隊はキエタ街に突入した、街はもぬけの殻だったので無血上陸に成功。午前7時、作戦完了した宗谷はラバウルに引き返した。[21] 4月6日、13ミリ機銃2基増設、7日、陸戦隊と大発を搭載しラバウルを出港。8日早朝、タラシー湾に進入、陸戦隊を揚陸させ無血上陸に成功。その日内にダンピール海峡の水路調査に向かった。[22]15日デュークオブヨーク島に向けてラバウルを出港。23日、測量中に敵双発機に襲撃されるも被害なし。またこの日、ラバウル方面の防備隊に編制され、24日以降はMO作戦の準備に入った。 5月17日、ミッドウェー海戦参加のため、集合地のサイパンに向けラバウルを発した。 5月26日に輸送船団とともにサイパン発、6月4日にはミッドウェー島北西500海里でB-17九機と交戦も被害なし。 6月6日、機動部隊全滅の報を一番早く傍受して、ウェーク島へ転針・待機。 6月13日、ポナペに撤収し、宗谷のMI作戦は終了した。[23] 8月、ラバウルに移動し第8艦隊に所属する。8月7日、海兵隊第1海兵師団がガダルカナル島に上陸し、「ガダルカナル島の戦い」が始まる。敷設艦津軽、明陽丸(5628 t)、第二一号掃海艇、各艦に分乗する海軍陸戦隊と共に宗谷はフロリダ諸島の戦いで占領されたツラギ島奪還に向かった。8月8日、敵機の雷撃で明陽丸が大破、翌朝沈没。作戦中止命令が出され、宗谷はラバウルを経てトラック基地に戻った。同日、三川軍一中将率いる巡洋艦部隊が米軍艦隊に突入して第一次ソロモン海戦が発生するが、宗谷以下陸戦隊輸送船団が後退していたため、当初のツラギ奪還任務は果たせなかった。 8月18日、横須賀帰還命令を受け翌19日、日本へ向けて出港。28日、横須賀到着。この日、初代特務艦長・山田雄二大佐が第二十駆逐隊指令としてガダルカナル島に向かう途中爆撃機に急襲され戦死した。[24] 9月14日、夕張と共に横須賀からラバウルへむけて出港した。10月5日ラバウルからブインに着任。第三次ソロモン海戦に備えソロモン諸島北部の港湾測量、掃海、錘量浮標の設置を行った。[25] 12月27日、ブインを出て翌日ブカ島クイーンカロライン港に到着。翌年1月1~31日にかけて港付近の測量、掃海、錘量浮標の設置、海図の設計、ブカ島の滑走路に航空隊を導入の為の下地作りをおこなった。

1943年(昭和18年)1月28日クイーンカロラインで測量海図の仕上げの最中の午前6時55分、敵潜水艦から発射された魚雷4本のうち1本が右舷後方に命中するも、幸運にも不発弾であったため難を逃れた。護衛の第二八号駆潜艇と共に爆雷を投下し、この潜水艦を撃沈した[26]。ただし、米軍の記録では該当する潜水艦の喪失記録はない。宗谷が爆雷を投下したという証言もあるが、宗谷が爆雷を搭載したのは横須賀に戻ってからという証言もある[27]。4月26日、ラバウルにて艦長が天谷嘉重大佐に交代。久保田大佐は横須賀鎮守府付となって退艦した。 4月28日ラバウルを出発し水路測量のためサンタイサベル島に赴いた。30日到着し測量任務を開始した直後、翼を休めていた敵飛行艇と遭遇、撃ち合った後、敵飛行艇は飛び去った。5月5日B-24と交戦、12分間の戦闘の間に、高角砲19発、20ミリ機銃120発、13ミリ機銃480発、7.7ミリ機銃138発の弾丸を撃ったが撃墜には至らなかった。機銃掃射と至近弾により測距儀を故障し二名の負傷者がでた。その日の夜カビエンに向けてイサベル泊地をあとにした。 5月23日、午前2時24分カビエンの港にて敵機の襲撃うけた、至近弾、右舷30m付近にて爆発。この爆発の震動によって「九〇式一型改一転輪羅針儀(ジャイロコンパス)」と「音響測探儀」が故障し横須賀に修理に戻ることになった。6月3日カビエンを出港し、トラック島に六泊したあとサイパンに寄港し、6月24日に横須賀に帰港した。 7月19日横須賀を出港し、7月29日にトラック泊地に到着。8月6日、駆逐艦夕月と第二十八駆潜艇を護衛艦に、朝風丸、山霧丸、北開丸を率いてラバウルへ出発した。 9月27日輸送船団を率いてラバウルを出港、10月2日にトラック島に到着。10月8日数隻の大発を搭載し上陸部隊を乗せマーシャル諸島クェゼリンに向かった。10月13日早朝、クェゼリンを目前に敵潜水艦に雷撃をうけるも被害なし、午前9時クェゼリンに到着した宗谷は陸軍部隊が移乗した大発を見送ると、夕方にルオットへ移動した[28]

1944年(昭和19年)1月初旬、燃料や食料の補給のためクェゼリンに向けて出港の用意をしていると前艦長久保田智・第二十四駆逐隊司令が来訪「クェゼリンは食料が不足してる」と忠告されトラック島に針路をかえた。1月14日、久保田司令率いる第二十四駆逐隊の駆逐艦海風涼風等の護衛を受けてブラウン島を出港、18日にトラック島に入港した。[29]2月1日第八艦隊から連合艦隊付属に編入。

2月14日、姉妹船「民領丸」が米潜水艦に撃沈された。トラック島空襲では2月17日、回避行動中に座礁し[30]、翌18日には空襲で米軍機1機を撃墜するも副艦長を含む9名が戦死し、天谷艦長も負傷し総員退艦命令が出た。 19日、満潮と共に宗谷は自然離礁し、仰天した乗組員は再び艦に乗り込んだ[31]。こうして宗谷は奇跡的に脱出に成功するが、当時の艦長 天谷嘉重大佐は責任をとわれ2月28日更迭、1944年(昭和19年)12月16日に拳銃自殺した。[32]

3月17日トラック泊地を出港、サイパン、小笠原諸島父島を経由して4月7日横須賀に帰還し9日日本鋼管浅野ドッグ入りし測量艦から輸送艦に改装され測探儀や観測機器を撤去し、25mm機銃を4機増設、ボイラーの交換をおこない、22日出渠。[33] 5月7日戦車第十一連隊第四梯団を乗せた天領丸と大湊で合流し駆逐艦雪風とともに護衛し5月15日幌筵島に到着。[34]5月25日横須賀に帰着、これ以降ボイラーの不調になやまされ修理と試運転を翌年の2月まで繰りかえす。5月30日、志和彪大佐が艦長就任。8月20日、志和彪大佐横須賀にて退艦。8月28日、電波探信儀搭載。[35]

8月18日、第三代艦長、久保田智大佐が軽巡名取にてパラオに緊急輸送任務の途中、敵潜水艦の雷撃をうけ艦と運命をともにした。[36] 久保田智大佐は1月25日に涼風、2月1日海風を失い2月10日に第二十四駆逐隊を解隊された後、3月18日に軽巡名取の艦長に着任していた。

9月21日、第五代艦長、志和彪大佐は特務艦勝力にてマニラに向かう途中、敵潜水艦の雷撃をうけ艦と運命をともにした。[37]

1945年(昭和20年)2月輸送任務に復帰、「特攻輸送艦」として2月27日軍事物資を積み横須賀を出港。3月2日室蘭に到着、3月4日、山内正規大佐が艦長就任。このあと物資を荷揚げして石炭などを搭載。青森県八戸に石炭を運んで室蘭に戻り、石炭を満載して横須賀に帰ったのは3月23日だった。これをもって第一次輸送任務完了。[38]3月25日第二次輸送任についた。5月29日、姉妹船「天領丸」が米潜水艦に撃沈された。[39]天領丸が海に消えた日、宗谷は第四次輸送任務おえて横須賀軍港にいた。6月19日、第五次輸送任務完了。6月24日、物資を積み満州にむけて神津丸、永観丸連れて横須賀を出港。同日午後、海防艦四坂、第五一駆潜艇と横須賀沖で合流し護衛についた。25日、第三十三号掃海艇が護衛に加わる、26日、宗谷は第126船団(神津丸、永観丸、海防艦四坂、第五一号駆潜艇、第三十三号掃海艇)と共に船越湾大釜崎沖を航行中、米潜水艦「パーチェ」からの雷撃で神津丸が轟沈、永観丸が被雷沈没。宗谷と護衛艦は爆雷で反撃し、パーチェに損害を与えて撃退した[40]。7月27日、横須賀に帰港し第六次輸送任務完了その後ドッグ入り。8月2日、横須賀でドック入りしている時、戦艦長門、病院船氷川丸と共に空襲を受ける。敵機が投下したガソリンタンク(増槽)が宗谷の機関室に飛び込んできたが、ボイラーに火を入れていなかったため爆発しなかった。[41] 翌日の3日、横須賀鎮守府の避退指令を受けた宗谷は標的艦大浜を伴い女川に向かった。4日女川に到着、6日の夕方、大浜を置いて第七次輸送任務のため室蘭に向けて単艦で出港した。 7日早朝、敵機動部隊に接近されるが霧が濃くなり、その霧に包まれた宗谷は八戸港に逃げきることに成功。この霧は乗組員に神の衣と呼ばれた。[42]この敵機動部隊はこのあと女川港を空襲、港に残った大浜は攻撃を受けて着底。 8日早朝、八戸を出港、同日午後室蘭に到着し、8月15日室蘭港で防空訓練中に終戦をむかえた。[43] 8月17日石炭を積んで室蘭を出港、八戸港を経由して21日横浜湾に到着、台風の影響により横須賀港に入ったのは24日の午後4時だった。同日第七次輸送任務を終了。29日軍艦旗を降ろし、30日引き渡しを終了。山内艦長以下全員退艦。[44]9月5日に除籍された。

艦長

艤装員長
  • 山田雄二 中佐:1940年4月24日 - 6月4日
特務艦長
  • 山田雄二 中佐:1940年6月4日 - 10月22日
  • 松本亀太郎 中佐:1940年10月22日-8月11日
  • 久保田智 中佐:1941年8月11日 - 1943年4月26日
  • 天谷嘉重 大佐:1943年4月26日 - 1944年2月28日
  • 志和彪 大佐:1944年5月30日- 1944年8月20日
  • 山内正規 大佐:1945年3月4日-1945年8月30日

引揚船(S119)

終戦後、1945年10月1日宗谷は同日付で大蔵省に返還され、船舶運営会に所属するSCAJAP番号S-119が与えられ引揚船S119となった。このとき宗谷丸と改名されたが船名表記は宗谷のままだった。 10月7日ヤップ島復員任務のため浦賀発。 同月24日に帰還。11月20日にはグアム、トラック方面復員任務のため浦賀発。12月12日に大竹で揚陸後、呉に移動した。 12月26日上海方面復員任務のため呉発。以後、台湾、ベトナムのサイゴン、葫蘆(コロ)島からの復員任務に従事した。 1946年3月23日、台湾の高雄からの引揚者輸送中船内で女児誕生。名付け親になった船長は宗谷の一字をとって宗子(もとこ)と名付けた。 1947年から1948年にかけては、大連、朝鮮、樺太からの引揚輸送に従事した。1948年11月に引揚任務を終了するまでに運んだ引揚者の総数は、19,000名以上にも達した。

灯台補給船(LL-01)

1948年(昭和23年)11月の引揚任務終了後、宗谷丸は商船風に外見を改め小樽に係船され樺太引揚業務の再開に備え少数の要員が保管にあたっていた。1949年(昭和24年)8月1日、宗谷はGHQより正式に帰還業務を解かれた。8月13日に来訪した海上保安庁の係官により調査された宗谷は使用可能と判断された。当初海上保安庁は水路測量船として使用する予定だったが、民間からチャーターし灯台補給船として使用していた第十八日正丸を船主から解傭を求められ返還するに伴い急遽、灯台補給船の代船が必要になり候補船になった。候補船になったもう一隻は青函連絡船宗谷丸であり、砕氷能力もあり適当と考えられてたが、GHQが求める設標船として測量艇のデリックを備えた宗谷のほうが好都合だったため宗谷に決まった。[45]このとき同名船2隻を候補としたためややこしかったので宗谷に再改名した。 11月に小樽より東京港竹芝桟橋沖に回航された宗谷は12月12日付で海上保安庁へ移籍した。石川島重工業で改装工事に着手、1950年(昭和25年)4月1日に改装を終えた宗谷は七代目灯台補給船(LL-01)となった。 1952年(昭和27年)6月頃、改装され航海用レーダー設置、S番号廃止、船名をひらがな表記にした。

灯台補給船時代の特殊な任務に奄美群島現金輸送がある。1953年(昭和28年)12月15日、同年度第三次補給航海を終えて門司港に入った宗谷に鹿児島港回航の命令がでた。アメリカ統治下にあった奄美群島が1953年12月25日に日本に返還されることになり、それにともなう約9億円の現金と通貨交換業務要員の輸送をするというものであり。当時、海上保安庁最大の船だった宗谷が指名された。12月20日深夜、鹿児島を発した宗谷は21日名瀬に入港、各島を回り、25日に名瀬に帰港。27日には「日本復帰祝賀式典」に出席した国務大臣一行を乗せ、28日に鹿児島に戻った。明けて、1954年1月3日、再び名瀬に向かい、各島で米軍統治時代の軍票を回収し、通貨交換業務要員を乗せ、1月9日に鹿児島に帰還した。[46]

1950年4月20日~6月6日、第一次補給航海を実施した宗谷は南極観測船転用のため灯台補給船を解役されるまでの5年半この任にあたった。宗谷は灯台守からは就役直後は「燈台の白姫」、晩年は「海のサンタクロース」と呼ばれ親しまれていた。当時大ヒットした映画「喜びも悲しみも幾歳月」には白く塗られた灯台補給船時代の宗谷が登場する。

南極観測船宗谷 SOYA(PL107)

1957年(昭和32年)7月1日から1958年(昭和33年)12月31日に開催される国際地球観測年(International Geophysical Year、略称:IGY)にあわせて、日本は南極観測を行うことにし、1955年(昭和30年)7月に開催された第1回南極会議に文書で南極観測参加の意志を伝えた。それに伴い南極観測を行うこととなり、砕氷船が必要となった。国鉄宗谷丸などの候補が選定され、砕氷能力や船体のキャパシティは宗谷丸のほうが勝っていたが、改造予算の問題や耐氷構造、船運の強さ(魚雷を被弾するも不発弾等)を買われ、宗谷が選定される。 1955年11月24日~12月12日には三菱日本重工横浜造船所のドックで総点検が実施された。 12月24日に灯台補給船としての解任式が行われ、同日をもって巡視船(PL107)へ種別変更された。 (一般的に南極観測船として知られる本船だが、海上保安庁での扱いは大型巡視船だった) 1956年(昭和31年)3月12日に日本鋼管(現ユニバーサル造船)浅野船渠で南極観測船への改造工事に着手し、造船所以外からも集まった職人達が意地とプライドを賭けて突貫工事を始めた。一方、独自に新技術を編み出していた各企業も惜しげもなく資材を提供し10月17日に竣工した。

(日本鋼管は後に砕氷艦ふじしらせ(初代)しらせ(2代)砕氷型巡視船PLH01そうやPM15てしおを建造する)

初代南極観測船として、東京水産大学(現東京海洋大学)の海鷹丸二世(1.452t)を随伴船に従え、1956年11月8日、東京晴海埠頭の1万人以上の大群衆に見送られ、宗谷と第1次南極観測隊員53名、宗谷の乗組員77名、樺太犬22頭(オス犬20頭・メス犬2頭)、猫1匹、カナリア2羽を乗せ、南極に向け出港した。[47](海鷹丸は10月28日に出港、海洋調査を行った後、ケープタウンで合流) 11月14日早朝、ルソン島沖にて慰霊を行い松本船長は戦没した先輩や同僚の追福を祈って花束を投げ入れた。翌日フィリピン洋上で台風19号に遭遇、16日、台風20号が発生し、二つの台風にはさまれた宗谷は横揺れが40度にも達したがなんとか切り抜けた。20日、松本船長は出港前に訪ねてきた元士官の「戦時中宗谷が沈まなかったのは艦内の宗谷神社のおかげ」とアドバイスされたことを思い出し「宗谷神社」を復活させた。(宗谷の強運の拠り所とされていた「宗谷神社」だがGHQに接収された時撤去されていた)[48] (宗谷の艦内神社には富士山本宮浅間大社の浅間大神が祀られておりこれは、ふじ、新旧しらせに受け継がれた) (この元士官はだれだったかはわかっていない、御社を置いて去っていったともいわれている))[49]

23日シンガポールに到着、補給を行い。28日シンガポールを出港。12月1日赤道を通過、甲板上で赤道際が行われた。12月5日インド洋上で幻の流星群に遭遇、この流星群は100年以上行方不明だったブランペイン彗星であることが2005年に判明した。 12月19日ケープタウン入港、海鷹丸と合流。29日ケープタウンを出港。 1957年1月4日、暴風圏を通り抜けて最初の氷山に遭遇。7日、宗谷は偵察にベル47G型ヘリコプターを飛ばした。このヘリコプターは日本航空史上初の南極を飛んだ航空機となった。10日、パックアイス縁に到着、海鷹丸から航空機燃料入りのドラム缶47本を受け取り、ここで海鷹丸と別れ宗谷はパックアイスに進入していった。16日、偵察に出たセスナ機がプリンスオラフ海岸に沿って続く細長い開水域を発見。この開水域は「利根水路」と名付けられ宗谷はこの水路に向けて進んでいった。[50] 1957年(昭和32年)1月24日 南緯69度00分22秒・東経39度35分24秒オングル島プリンスハラルド海岸に接岸。1月29日 公式上陸、第1次南極地域観測隊昭和基地を開設、宗谷がプリンスハラルドに接岸の間、「プリンスハラルド宗谷船内郵便局」が船内に置かれた[51]。2月13日オングル島の北にある小島に「宗谷神社」を分祀しこの小島を「宗谷島」と命名した。[52]15日、越冬隊員に見送られ離岸したが、翌日天候が悪化し氷に閉じ込められた。28日早朝、天候が回復しビセット状態から解放され、外洋に向けて砕氷再開。午後2時、氷原の中間点にて海鷹丸の誘導で救援に到着したソ連の砕氷艦オビ号(12.600t、8400馬力)と会合。オビ号の航跡を追い午後11時、外洋への脱出に成功し海鷹丸と合流。その後、ケープタウン沖の暴風圏で宗谷は、最高片舷62度に及ぶ横揺れに見舞われたがこれを見事に切り抜け、3月10~15日ケープタウンに寄港した後、4月5~13日シンガポールを寄港し宗谷と海鷹丸は4月24日に東京の日の出桟橋に帰港した。[53](ケープタウン寄港中、オビ号が寄港、両船の船長と隊長は相互訪問行った)

1957~58年、第2次南極観測、この年の南極の気象状態はきわめて悪く、宗谷を含む各国5隻の砕氷船が氷に閉じ込められた。このときは救援を待たず脱出に成功したが、1958年2月1日には密群氷を航行中に左スクリュー・プロペラ1枚を折損した。6日、46日ぶりに外洋に脱出に成功し、7日アメリカ海軍のウィンド級砕氷艦「バートン・アイランド」号と会合、支援を受け8日密群氷に突入したが、その日の午後三時半、誘導していたバ号のベル型ヘリコプターが不時着し救出活動に入って進入をやめ、ここから昭和号を飛ばすことになった。11日、第一便に隊員1名と子犬1頭、カナリア2羽、第二便に隊員2名と子犬4頭、第三便に隊員2名と猫1匹、子犬1頭、第4便に隊員3人の回収に成功した。13日天候の悪化により空輸が困難となった。14日晴れの間をみて昭和号を飛ばし隊員3名、子犬2頭、母犬を連れ戻すがこれ以降天候が悪化、15日、バートン・アイランド号は砕氷航行中、氷盤に乗り上げ動けなくなってしまい宗谷がロープで引っ張ったがロープが切れてしまった。16日バ号側が氷盤を爆破して抜けだすことに成功。2月17日、外洋に脱出し18日、密群氷に再進入し昭和号を発進させられそうな水路や氷山を探したが見つからず、2月24日越冬計画を断念し帰途についた。これがタロとジロの悲劇につながる。

1958年、第2次観測の失敗を経験に第3次観測では雪上車による輸送体勢から大型ヘリコプターによる空輸を主体とすることに方針転換し、宗谷は大型ヘリ発着甲板を従来のヘリ甲板の上に増設し、小型へり格納庫を撤去、航空機ガソリンタンク新設、航空司令室を増設、ヘリコプター吊上げ用のクレーン増設等の、ヘリコプター運用に特化した大改装を行った。 偵察用ベル47G2機、シコルスキーS58型2機、測地用DHC-2ビーバー1機を搭載した宗谷は乗組員や観測員からヘリ空母、ミニ空母と呼ばれていた。 大型ヘリコプターによる人員、物資、資材を基地まで空輸するという、極地では前例の無い輸送方法だった。1958~59年、第3次南極観測、1959年1月14日~2月3日の20日間に58便の輸送を行い、14名の越冬隊員及び資材57tの空輸に成功した。[54]大型ヘリコプターによる航空輸送は予想以上の成果を上げ、各国も注目した。この空輸を基本とした体制は後継船のふじ、しらせにも受け継がれることになる。

1959年、第4次観測、南極観測本部はソ連が昭和基地を航空機の基地連絡中継地として利用することを許可した。その後、第4次観測隊員はオビ号側に共同接岸を申込みオビ号側はそれに同意した。 12月半ば第4次隊の往路ケープタウンでベルギー隊からグリーンランド・ハスキーの子犬をプレゼントされた。 1960年1月1日オビ号と合流、2日昭和基地から43マイルの位置から輸送を開始。1月7日、オビ号がベルギー観測船の救出要請を受けたためオビ号と別れた。その後も輸送を続け、2月6日まで103便126t、雪上車による輸送28t含めると総計154tの輸送に成功した。[55]1960年4月16日沖縄からの要請で第4次観測の帰途、那覇に入港し大歓迎を受けた。[56]

宗谷は派遣回数と同じ回数の修理・改装を繰り返し、通算6回の南極観測任務を遂行した。

巡視船宗谷(PL107)

1962年(昭和37年)4月17日南極観測任務を終えた。5月13~15日、随伴船に巡視船「もがみ」(PS11)を従え伊勢湾で開催される観閲式に米、英、仏、ソ連、タイの大使館付海軍武官夫妻、運輸大臣、海上保安庁長官を乗せた観閲船として参加した。保安庁最大の宗谷は所属船艇の旗艦、模範船として退役するまでトップの座にあった。[57]

6月15日、日本鋼管浅野ドッグ入渠し、観測機器、航空機関係の重装備を降ろしたが船体の色は観測船のままだった。

8月1日第三管区海上保安本部所属になる。3日、サケ、マス漁業監視のため北海道第一管区釧路海上保安部へ旅立った。24日、監視任務を終え函館に入港、燈台補給船時代の最後の船長だった松原船長は函館海上保安部長になっていた。松原部長の指揮のもと第一管区所属の全巡視船を集合させ宗谷のための観艦式がおこなわれた。同日午後11時、三宅島の雄山噴火の報せ受けた宗谷は急遽、東京湾に急行した。9月14日、館山に疎開した学童2千名を島に送り届けた。 9月28日、金華山沖南東1500キロの海域でマグロ漁船「第六海進丸」から医療救助の通報が横浜海上保安部に入り出動命令が下った。宗谷には当時の日赤にもない最新の医療設備が調っていた。横浜日赤病院の外科医1名と看護婦2名を乗せた宗谷は漁場へと急いだ。翌29日、同じ海域で操業中の「第六金良丸」からも急患発生との緊急連絡が入った。翌30日午後8時50分、横浜沖約1千キロの地点で「第六金良丸」会合。医師は急性盲腸炎と診断、すぐさま手術となった。同日「第六海進丸」の急患が到着、手術が終わった直後の午後11時53分、患者は意識不明だった。硬膜下血腫と判断した医師は上陸してからも間に合うと判断、しかし衰弱した患者に輸血が必要だったが、あいにくと輸血用の血液を持ってきてなかったが、乗組員数名が献血を名乗りでた。10月3日午前10時20分、横浜港に接岸、患者は手術うけて助かった。[58]

1963年(昭和38年)2月、第一管区に派遣その後、4月1日北海道第一管区海上保安本部に移籍。

1964年(昭和39年)2月、初代ふじ艦長に内定された本多敏治一佐を乗せオホーツク海での氷海航海訓練を行った。

1964年4月6日、巡視船「てんりゅう」(PS03)が紋別港沖で流氷にはさまれて行動不能となった漁船5隻の救助作業中、流氷により行動不能になり、9日、宗谷に救出された。

1965年(昭和40年)7月15日、 二代目南極観測船「ふじ」就役にともない南極観測船としての役割を正式に終える。

1966年(昭和41年)5月小笠原墓参団を芝浦ふ頭から乗せ父島・母島及び硫黄島にて慰霊祭を行なった。

1970年(昭和45年)3月16日、19隻の漁船が吹雪と流氷のために遭難し、宗谷が救出に向かう。悪天候の中、無事救出成功。

1970年4月、東京にて整備中に巡視船本来の色に塗り替える。[59]

1975年(昭和50年)8月「対馬丸」海上慰霊祭に派遣され、22日遺族の方々と皇太子殿下を乗せ、卜カラ列島の悪石島沖にて午後10時12分から慰霊をおこなった

1978年(昭和53年)3月12日、稚内港の流氷群を砕氷し、とじこめらていた漁船41隻を外洋に導いた。

1978年3月半ば、根室半島沖にてふじの後継艦建造計画のための砕氷実験を行いデータ取得に協力した。

1978年(昭和53年)10月2日 竹芝桟橋にて解役式を迎え退役。解役式には歴代長官、歴代船長、観測隊員、宗谷にゆかりある人たちが出席した。解役式に海上保安庁の長官が出席したのは、現在のところ宗谷のみである。 海難救助出動は350件以上、救助した船125隻、1000名以上の救助実績を揚げ「海の守り神」という異名をもつ事になった。

代替船としてヘリコプター搭載型巡視船そうや」(船番号:PLH01、現役)が建造された。

展示

1979年(昭和54年)5月から、東京お台場にある船の科学館で一般公開されている。

2006年(平成18年)には南極観測50周年を記念して宗谷とタロ、ジロが写った切手と記念硬貨の発行、宗谷南極観測出港の再現が宗谷で行われた。

2008年(平成20年)2月16日には宗谷の戦友会「軍艦宗谷会」が中心となり靖国神社より権宮司を招き誕生70年を祝う古希祭が執り行われた。参加した人々は宗谷の建造や改造に関わった者、地領丸、特務艦、復員船、灯台補給船、南極観測船、巡視船様々な時代の宗谷に関わった人々が集まった。

2010年(平成22年)チリ地震 (2010年)の津波により、船の科学館は宗谷への乗船を一時停止した。 保存船としての宗谷は、現在も海上保安庁特殊救難隊の訓練所としても使われている。

進水からすでに76年が経過しており、本来商船としてつくられながら、軍艦や南極観測船、巡視船として、過酷な環境に身を置いた類稀な船歴からくる長年の酷使や、退役後の繋留に伴う経年劣化により船体が傷んでいるため、維持管理には多額の資金が必要とされ、募金活動が行われている。

要目

1945年(特務艦)

1961年(第6次南極観測仕様)

ファイル:Soya PL107 2.jpg
船の科学館に展示される宗谷
  • 総トン数:2,736 t
  • 排水トン(満載)4.614t
  • 全長:83.7 m
  • 全幅:15.8 m(バルジ含む)
  • 速度:12.3 kt
  • 機関:ディーゼル機関2基、2軸
  • 出力:4,800馬力
  • 航続距離:11 ktで16,400浬
  • 搭載機:シコルスキーS-58型ヘリコプター 2機
    ベル47G2型ヘリコプター 2機
    デ・ハビランド・カナダ DHC-2「昭和号」1機(第2次観測から第5次観測)セスナ185型1機(第6次)(いずれも露天繋留)
  • 砕氷能力:1.2 m (第1次観測から0.2m強化)
  • 貨物積載量:500 t(観測用物資、初期値400 tから増量)

※当初、搭載ヘリコプターは小型のベル47G観測機2機であったため、ヘリ甲板前方に格納庫を有していた。第2次南極観測の失敗を元に昭和基地への物資輸送をヘリコプターの輸送に切り替え大型のシコルスキーS-58型2機を追加で搭載、格納庫の容量が不足したため第3次改装の際に格納庫を撤去してヘリ甲板を拡大、露天繋留による暴露積載とし、小型ヘリコプターのベル47Gは分解して箱詰めされた状態で飛行甲板上に搭載された。

1970年(巡視船)

  • 総トン数:2,734 t
  • 排水トン(満載)3.853t
  • 全長:83.7m
  • 全幅:15.8 m(バルジ含む)
  • 速度:13.5 kt
  • 機関:ディーゼル機関2基、2軸
  • 出力:4,800馬力
  • 航続距離:12.7 ktで18,578浬
  • 搭載機:なし
  • 減揺タンク装備


宗谷を題材とした作品

ファイル:International Geophysical Year in 1957.Japanese sttamp of 10yen.jpg
日本が発行した国際地球観測年記念切手。宗谷のシルエットが描かれている。

参考文献

  • アルバム「写真で見る『宗谷』の生涯」 海人社世界の艦船』1983年2月号 No.318 pp.45–49
  • 伊東直一「「宗谷」一代記」 海人社『世界の艦船』1983年2月号 No.318 pp.92–97
  • 小島敏男『南極観測船ものがたり』(成山堂、2005年)ISBN 4425947118
  • 桜林美佐『奇跡の船「宗谷」 テンプレート:Small』(並木書房、2006年) ISBN 4890632069
  • 飯沼一雄「「宗谷」誕生秘話 テンプレート:Small 上・下」 海人社『世界の艦船』2006年11月号 No.666 pp150–155・2006年12月号 No.667 pp.150–155
  • アルバム「あれから50年 テンプレート:Small」 海人社『世界の艦船』2006年11月号 No.666 pp.48–51
  • 「巻頭特集・南極物語 観測船「宗谷」が目指した極限の大地」 大日本絵画『モデルグラフィックス』2007年3月号 No.268
  • 「特別記事・南極観測船「宗谷」」 モデルアート社『モデルアート』2007年3月号 No.721
  • 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』(新潮社、2009年)ISBN 4103904070
  • 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』文庫版(新潮社、2011年)ISBN 9784101332222
  • 船の科学館『資料ガイド3宗谷』(日本海事科学振興財団、2012年改訂)

脚注

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  1. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』12頁
  2. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』18頁 飯沼一雄「「宗谷」誕生秘話」の孫引き。
  3. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』8頁
  4. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』42頁
  5. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』34-35頁
  6. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』38頁
  7. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』71頁
  8. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』39頁
  9. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』46-48頁
  10. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』73-74頁
  11. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』56頁
  12. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』88-89頁
  13. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』90頁
  14. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』95頁
  15. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』100頁
  16. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』108頁
  17. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』112頁
  18. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』120頁
  19. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』124頁
  20. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』125頁
  21. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』128頁
  22. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』131頁
  23. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』144-144頁
  24. 桜林美佐『奇跡の船宗谷』49頁
  25. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』149-150頁
  26. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』120頁
  27. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』121頁
  28. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』172頁
  29. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』174-175頁
  30. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』142-143頁
  31. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』146頁
  32. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』162
  33. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』194-195頁
  34. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』196-197頁
  35. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』201頁
  36. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』198-200頁
  37. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』203-204頁
  38. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』208-210頁
  39. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』166頁
  40. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』171頁
  41. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史』174頁
  42. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』222-223頁
  43. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』236頁
  44. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』248-250頁
  45. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』278-280頁
  46. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』288-291頁
  47. 船の科学館『資料ガイド3宗谷』37頁
  48. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』409-412頁
  49. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』409-412頁
  50. 小島敏男『南極観測船ものがたり』81-82頁
  51. 1956年(昭和31年)10月16日郵政省告示第1131号「プリンスハラルド宗谷船内郵便局を設置する件」
  52. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』421頁
  53. 船の科学館『資料ガイド3宗谷』40頁
  54. 船の科学館『資料ガイド3宗谷』42頁
  55. 小島敏男『南極観測船ものがたり』104-105頁
  56. 船の科学館『資料ガイド3宗谷』43頁
  57. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』456-458頁
  58. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』458-461頁
  59. 大野芳『特務艦「宗谷」の昭和史、文庫版』468頁

関連項目

外部リンク

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