飯田蛇笏
飯田 蛇笏(いいだ だこつ、1885年(明治18年)4月26日 - 1962年(昭和37年)10月3日)は、日本の俳人。本名、飯田武治(いいだ たけはる)。別号に山廬(さんろ)。
略歴
山梨県東八代郡五成村(のち境川村、現笛吹市)の大地主で旧家の長男として生まれる。元富国生命社長の森武臣(孫の牧子は衆議院議員山口壮の妻)は実弟。
山梨県では江戸期以来の宗匠が俳壇を形成し影響力を残しており、蛇笏も幼少期から旧来の月並俳句に親しむ。1900年(明治30年)には東京において正岡子規が『ホトトギス』紙上で俳句革新を開始するとその影響を受け、河東碧梧桐に師事した堀内柳南や神奈桃村ら新興俳人が出現した。
旧制甲府中学(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、1905年(明治38年)早稲田大学英文科に入学する。早稲田大学では高田蝶衣らの早稲田吟社の句会に参加し、同じ下宿の若山牧水らとも親交を深め句作や詩作をし、小説も手がけ『文庫』『新声』などに発表する。高浜虚子の主宰する『ほとゝぎす』にも投句した。この時は号を玄骨と称していた。
子規の死後に『ホトトギス』を主催した虚子は小説への偏向を強め、1909年(明治42年)に蛇笏は家庭事情から早大を中退し帰郷する。その後は家業の農業や養蚕に従事する一方で、松根東洋城の『国民新聞』への投句を始める。
山梨県の俳壇では1911年(明治44年)に萩原井泉水が『層雲』を創刊し、河東碧梧桐の影響で新傾向俳句へ転向した秋山秋紅蓼らを迎合し、翌年には堀内柳南らと井泉水や碧梧桐が甲府に招かれ、新傾向俳句が興隆した。蛇笏は伝統的俳句の立場からこれを批判し、『山梨毎日新聞』紙上において「俳諧我観」を連載し、自然風土に根ざした俳句を提唱した。1913年(大正2年)には虚子の俳壇復帰と共に俳句の創作を再開し、『ほとゝぎす』への投句を復活する。
1914年(大正3年)愛知県幡豆郡家武町(はずぐんえたけちょう、現西尾市)で発刊された俳誌『キラゝ』の選者を担当。1917年(大正6年)同誌の主宰者となり、誌名を『キラゝ』から『雲母(うんも)』に改める。1925年(大正14年)に発行所を甲府市に移す。
1932年(昭和7年)処女句集『山廬集』を出版。故郷・境川村での俳句創作活動を続け、1962年(昭和37年)没。享年77。忌日の10月3日は「山廬忌」という。
5人の男児をもうけたが、そのうち次男が病死し、長男・三男が戦死。四男の龍太が家督を継いだ。龍太はのちに『雲母』を継承主宰した(同誌は没後30年の1992年(平成4年)に900号で終刊した)。
1967年(昭和42年)に彼の功績を称え、角川書店が「蛇笏賞」を創設。毎年6月優れた句集に授与している。
作品
山梨の山間で創作した作品が大半である。句友と離れて暮らすその作風は孤高であり重厚かつ剛直なものであったが、子供らの死によりその作風は静穏なものに変わっていった。
代表句に
- 芋の露連山影を正しうす(1914年作、『山廬集』所収)
- をりとりてはらりとおもきすすきかな(1930年作、『山廬集』所収)
- くろがねの秋の風鈴鳴りにけり(1933年作、『霊芝』所収)
- 誰彼もあらず一天自尊の秋(晩年の句、『椿花集』所収)
など。句集に『山廬集』(1932年、雲母社)、『霊芝』(1937年、改造社)、『白嶽』(1943年、起山房)など多数。なお生前に句碑の建立を拒んだため、山梨県立文学館にある「芋の露連山影を正しうす」が唯一の句碑である[1]。
文献
- 『飯田蛇笏全句集』 角川書店 新編1985年
- 『飯田蛇笏集成』 (全7巻) 角川書店、1995年
- 石原八束著 『飯田蛇笏』 角川書店、1997年 伝記:第12回俳人協会評論賞
- 丸山哲郎著 『飯田蛇笏秀句鑑賞』 富士見書房、2002年 同社は角川子会社
- 福田甲子雄編 『飯田蛇笏 蝸牛俳句文庫』 蝸牛社、1996年
- 角川源義、福田甲子雄編 『飯田蛇笏 新訂俳句シリーズ・人と作品』 桜楓社、1980年
出典
- ↑ 雄山閣 『現代俳句ハンドブック』 1995年、14頁