青山通り
青山通り(あおやまどおり)は、東京・三宅坂から、赤坂、青山を経て、渋谷に至る大通りである[1]。すべての区間が国道246号の一部となっている。
概要
三宅坂から明治通り交点(渋谷駅東口)までの区間であり、千代田区と渋谷を結ぶ。正式な区間は、東京都千代田区永田町一丁目から、東京都渋谷区渋谷三丁目までである[1]。その間には赤坂、青山、表参道、骨董通りなどがある。概ね片側3 - 4車線という広幅員道路であり、地下には東京メトロ銀座線及び東京メトロ半蔵門線が通る。
東宮御所、明治神宮外苑、青山学院など、緑も多い。面する建物としては、国際連合大学、こどもの城、青山学院、Ao (複合商業ビル)などがある。会社も多く立地し、オフィス街やファッション街としての人気が高い通りである。
歴史
江戸時代には厚木街道と呼ばれていた。五街道に次ぐ主要な街道と1つであった。
明治時代に入ると、急速な交通機関の発達により大規模な道路改正計画が公示されるも、日清戦争の影響で計画は頓挫。一方、1904年(明治37年)には市電が青山通りの三宅坂から青山四丁目(現在の外苑前付近)まで開通、明治末には内堀通りから渋谷までが路面電車で結ばれていた[2]。
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)により、赤坂地区(赤坂・青山)は激しく被災、被害率は98.3%にも達する焼け野原となった。
日本の敗戦後の1962年(昭和37年)、「青山通り」の呼び名が正式名称として採用された[3]。さらに、1964年(昭和39年)の東京オリンピックに向けて大幅な道路の拡張工事が計画され、これが大きなターニングポイントとなり、現在の青山通りの姿に向かうこととなる。工事の結果、青山通りはそれまでの22mから現在の40mの道路へ拡張が行われた。昭和43年9月29日、長年にわたって、親しまれてきた路面電車(当時、都電)は、青山1丁目~渋谷区間が姿を消し、以後、青山通りは自動車が独占する通りとなっている。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 東京都通称道路名設定公告整理番号12、1962年4月25日
- ↑ アイランズ 『東京の戦前 昔恋しい散歩地図』 草思社 平成16年1月30日発行第1刷
- ↑ 研究報告書 これからの都市生活を考えていくための新世代コミュニティの研究 公益財団法人ハイライフ研究所 2011年3月 p19