野村芳亭
テンプレート:ActorActress 野村 芳亭(のむら ほうてい、明治13年(1880年)11月13日 - 昭和9年(1934年)8月23日)は、大正・昭和初期の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。本名野村 粂蔵(のむら くめぞう)。
来歴
1880年(明治13年)11月13日、京都市に生まれる。父は野村芳圀と号し、京都・寺町三条で劇場用の背景や看板の製作を業とし、「都をどり」の背景を独占的に製作していた。父の没後は、その号を継ぎ、芝居絵の制作に従事する。その父の関係で、若いときから京都劇界につながりがあり、松竹創始者の白井松次郎、大谷竹次郎とは懇意であった。
1897年(明治30年)に、京都で、織物業者稲畑勝太郎がフランス人技師ジュレールを招いてシネマトグラフの上映を日本で最初に行ったときに助手を務めた。その知識を生かし、舞台と映画を連続して上映する「連鎖劇」に深くかかわり、「本郷座」で新派劇の頭取になる。またこのころ、横田商会やその後の日活で映画監督となる前、「千本座」時代の牧野省三と交流があった。
1920年(大正9年)、松竹が本格的に映画製作に乗り出すと、松竹蒲田撮影所の理事に迎えられる。短編劇映画『夕刊売』を監督し、利益を上げ、1921年(大正10年)、同撮影所の所長となる。ヘンリー・小谷のアメリカンスタイルと自身の家庭ドラマをミックスした「松竹現代映画」の原型を作った。また、旧劇の演目に現代劇俳優を起用して、従来の「旧劇活動写真」の写実化を徹底し、これが後の時代劇の原型となった。当時の弟子に、五所平之助、重宗務らがいる。1924年(大正13年)、撮影所長を辞任して一監督に戻り、『大尉の娘』を最後に蒲田を去り、松竹下加茂撮影所へ異動する。その後も、大衆の望むものを追求し続け、芸術性も高く、集客力もある作品を作り続けた。
1934年(昭和9年)、最後に監督した作品となった『街の暴風』の公開試写会場で倒れ、同年8月23日死去した。満53歳没。
人物・エピソード
野村はもともと舞台の背景描きが本業で、歌舞伎や新派に通じていたことから映画監督に転じ、松竹蒲田撮影所の所長も兼ねたという、マキノ雅弘や吉野二郎に次ぐ人物である。若い監督や脚本家に劇の筋立てを口述し、一晩で脚本を書かせたという脚本作りの名人であり、野村の一門からたくさんの名監督、名脚本家が出た。伊藤大輔はその中で最も寵愛された一人で、ほとんど毎週その名を見ぬことはなかったほどだった[1]。
日本映画の基礎を作った功労者の一人であり、映画監督の野村芳太郎は実子である。
おもなフィルモグラフィ
- 『夕刊売』 : 1921年
- 『海の呼声』 : 1922年
- 『清水次郎長』 : 1922年
- 『実説国定忠治・雁の群』 : 1923年
- 『幽芳集 乳姉妹』 : 1923年
- 『母』 : 1923年
- 『女殺油地獄』 : 1924年
- 『彼女の運命』 : 1924年 - 池田義信と共同で監督
- 『大尉の娘』 : 1924年
- 『元禄女』 : 1924年
- 『カラボタン』 : 1926年
- 『大楠公』 : 1926年
- 『父帰る』 : 1927年
- 『母』 : 1929年
- 『金色夜叉』 : 1932年
- 『乳姉妹』 : 1932年
- 『沈丁花』 : 1933年
- 『涙の渡り鳥』 : 1933年
- 『婦系図』 : 1934年)
- 『地上の星座』 : 1934年
- 『街の暴風』 : 1934年 - 遺作