酒井忠績

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テンプレート:基礎情報 武士 酒井 忠績(さかい ただしげ)は、江戸時代末期の大名老中大老播磨姫路藩第8代藩主。雅楽頭系酒井家宗家16代。江戸幕府最後の大老である。

生涯

姫路藩分家の旗本酒井忠誨(5000石)の長男として生まれる。本家の姫路藩主酒井忠顕に子がなかったため、その養子となり、万延元年(1860年)に家督を相続する。

文久2年(1862年)、幕命により上洛した。京都守衛と京都所司代臨時代行の特命を帯びての入京であった。安政の大獄期に京都所司代に就任した小浜藩酒井忠義は、井伊直弼暗殺後も引き続きその職にあり、罷免を朝廷から要求されていた。幕府は忠義を罷免し、後任として大坂城代松平宗秀を内定したが、宗秀も安政の大獄当時は寺社奉行の任にあり、しかも直弼の信任が非常に厚かったため、朝廷は宗秀の所司代就任にも内諾を与えなかった。このため所司代職は空席という、開幕以来の異常事態となっていた。このため、9月末に牧野忠恭が後任の所司代として正式に承認されるまで4ヶ月間臨時所司代の任にあたった。

京都市中警備の功績により、文久3年(1863年)、老中首座となる。老中就任後は兵庫開港をめぐって朝廷対策に奔走する一方、年末に将軍家茂の上洛が決定すると、水戸藩徳川慶篤忍藩松平忠誠とともに江戸留守居役を命じられる。ちょうど1年後に老中職を退いたが、8ヶ月後には大老となった。そして第二次長州征伐の事後処理、幕府軍の西洋式軍制の導入など、幕政改革に尽力した。一方、藩内で台頭してきた尊王論に対しては「徳川家譜代の臣として幕府と存亡をともにするのが道理である」として元治元年(1864年)に重臣河合屏山を幽閉して多数の尊王派を粛清する「甲子の獄」と呼ばれる事件を起こしている[1]

慶応3年(1867年)2月に隠居し、養子の弟忠惇に家督を譲る。戊辰戦争の際に鳥羽・伏見の戦いの責任を問われた忠惇は江戸で蟄居、同じく江戸にいた忠績も謹慎をしていたが、慶応4年(1868年)5月5日に忠績は江戸城の新政府軍大都督府に対して、徳川家の処遇への不満ととともに酒井家は徳川家の家臣であり徳川家との主従関係を断ち切って朝廷に仕えるのは君臣の義に反する為所領を返上したいとする嘆願書を提出してしまう。新しく藩主となった酒井忠邦は新政府の命令を受けて忠績の翻意を促すが忠績はこれを拒絶、忠惇も忠績の考えに賛同する有様であった。このため、姫路藩は新政府に迫られて佐幕派の処分に乗り出し、忠績・忠惇側近を粛清した。同年9月14日、弟の静岡藩酒井忠恕方への同居を認められる[2]。明治13年(1880年)11月、終身華族に列する。明治22年(1889年)5月、永世華族に列し、男爵を授けられた。

経歴

脚注

  1. 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P176-177
  2. 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P181-185

参考資料

  • 柳営補任
  • 『内閣文庫蔵 諸侯年表』東京堂出版
  • 『増補幕末明治重職補任・附諸藩一覧』東京大学出版会

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