足柄 (重巡洋艦)
足柄 | |
艦歴 | |
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発注 | 大正12年度艦艇補充計画 |
起工 | 1925年4月11日 |
進水 | 1928年4月22日 |
就役 | 1929年8月20日 |
沈没 | 1945年6月8日 |
位置 | テンプレート:Coord |
除籍 | 1945年8月20日 |
性能諸元 (竣工時→改修後) | |
排水量 | 基準: 11,300トン→13,000トン 公試: 14,743トン |
全長 | 203.76m |
全幅 | 19m→20.73m |
吃水 | 5.9m→6.37m |
機関 | 130,000hp |
最大速 | 35.5ノット→33ノット |
航続距離 | 14ノットで7,000海里 |
乗員 | |
兵装 | 20.3cm連装砲5基10門 12.7cm対空砲連装4基8門 25mm対空機銃8門 13.2mm対空機銃4門 61cm魚雷発射管4基16門 |
搭載機 | 水上偵察機2機→3機 |
足柄(あしがら)は、日本海軍の重巡洋艦。妙高型の3番艦である。川崎重工業神戸造船所にて建造。艦名は神奈川県箱根の足柄山に因んで命名された。名称は海上自衛隊のあたご型護衛艦「あしがら」に受け継がれている。
1937年のジョージ6世戴冠記念観艦式の際には、招待艦としてイギリスへ派遣され、「飢えた狼」というニックネームをつけられた[1]。
艦歴
1929年(昭和4年)8月20日神戸川崎造船所で竣工する。1935年(昭和10年)4月7日の標柱間速力試験では排水量13,000tで実測35.6ノットを発揮した[2]。9月14日の演習中に2番砲塔で事故が発生し、13名が死亡した。1937年(昭和12年)にはイギリスに派遣され、5月20日のジョージ6世戴冠記念観艦式に参加。その後、ドイツのキール軍港に寄港しつつ帰路についた。佐世保軍港で整備したのち10月より東南アジア方面に進出して活動した[3]。12月11日、第四艦隊旗艦(司令官:豊田副武海軍中将)として台湾周辺海域で行動中、台湾東南洋上の火燃島に座礁した米国豪華客船「プレジデントフーバー号」の救援に赴く[4]。「足柄」乗組員は米駆逐艦が到着するまで火燃島に上陸した米国客船乗客を保護した[5]。1941年(昭和16年)初頭より仏印進駐を支援し、9月23日に佐世保へ帰還した[6]。「足柄」は第三艦隊第十六戦隊旗艦となり、10月10日には高橋伊望中将が乗艦している[7]。11月29日南方へ出撃、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後は12月のフィリピン侵攻に参加する。
1942年(昭和17年)3月1日のスラバヤ沖海戦では、姉妹艦3隻と共にイギリス海軍の重巡洋艦「エクセター」、駆逐艦「エンカウンター」、「ポープ」を共同で撃沈する。戦闘終結後、高橋第三艦隊司令長官の命令により連合軍将兵の救助活動を行う[8]。3月3日には高角砲にて連合軍潜水艦の撃沈を記録した[9]。その後第2南遣艦隊旗艦(第十六戦隊)となり、シンガポール方面で活動する。本艦は東南アジア各地の視察・訪問・兵員輸送・巡航・警戒任務に従事、東奔西走した[10]。一方、ソロモン諸島に比べ落ち着いた戦線を担当していたことから、「足柄」が旗艦を務める第十六戦隊を「留守部隊」と自嘲する乗組員もいた[11]。
1944年(昭和19年)2月25日に第五艦隊第二十一戦隊(青葉、足柄、鬼怒、敷波、浦波、天霧)所属となる[12]。3月29日に佐世保入港後、4月2日に大湊入港[13]。アリューシャン方面で警備につく。6月上旬、マリアナ沖海戦で日本海軍は大敗。神重徳連合艦隊参謀は戦艦「山城」、巡洋艦「那智」、「足柄」、「多摩」、「木曽」、「阿武隈」等の第五艦隊によるサイパン島突入作戦を発案、米軍に対し陸上砲撃をおこなう計画を提案した[14]。6月21日、横須賀に入港して作戦準備をおこなうが、実行前に作戦は中止となった[15]。8月、呉に移動。同月、第五艦隊と第12航空艦隊で北東方面艦隊が編成される。10月、台湾沖航空戦で日本軍はアメリカ艦隊に大損害を与えたと誤認。第二十一戦隊は残敵掃討に向かうが、戦闘はなく帰還した。
1944年10月のレイテ沖海戦に「足柄」は志摩艦隊所属で参加する。日本海軍は大敗、前任が本艦艦長であった阪匡身戦艦「扶桑」も、「足柄」の傍で「扶桑」と共に沈んでいる[16]。レイテ沖海戦後、第二十一戦隊は解隊された。12月5日、「足柄」の所属する第五艦隊が南西方面艦隊に転属となった。
12月、フィリピンのミンドロ島に上陸したアメリカ軍への攻撃作戦(礼号作戦)に参加する。12月24日、作戦の指揮を執る第二水雷戦隊司令官木村昌福少将座乗の駆逐艦「霞」や軽巡洋艦「大淀」などと共にカムラン湾から出撃した。12月26日、B-25爆撃機の投下した500ポンド爆弾1発が命中(B-25が体当たりしたとも)。火災が発生したが酸素魚雷に誘爆することなく消火に成功し、マンガリン湾に突入した。湾内の停泊した輸送船や上陸地点の物資集積所に向けて砲撃を開始すると、約20分間、砲撃を行った。12月28日にカムラン湾に帰投した。
1945年(昭和20年)2月5日に南方に分断された残存艦艇で第十方面艦隊が編成され、「足柄」はそこに属する第五戦隊の所属となった。
1945年6月4日、「足柄」は駆逐艦「神風」を伴ってシンガポールを出港する。翌日バタビアに到着し、陸軍の兵員約1600名や物資を乗せ、6月7日にシンガポールに向け出港した。「神風」は別行動をとっており、「足柄」は単艦で航行していた。6月8日12時15分頃、バンカ海峡北側入り口で「足柄」は「神風」と合流しようとしていた[17]。その時、イギリス海軍潜水艦「トレンチャント」が発射した魚雷8本の内4本が「足柄」の右舷に命中した。「トレンチャント」はさらに後部発射管から2本の魚雷を発射し、1本が命中する。「足柄」は12時37分に転覆し、艦尾から沈没した。「神風」は艦長三浦速雄大佐を含む乗員853名と陸兵400名を救助した[18]。
ペナン沖海戦で沈没した第五戦隊のもう1隻の艦「羽黒」が6月20日に除籍されると、第五戦隊は解隊された。
1945年8月20日除籍。
エピソード
- 上述の通り「足柄」はイギリスにおいて「餓えた狼」というニックネームをつけられた。日本側ではこれを本艦に対する高評価であると解釈したが、英国の巡洋艦にある気品や優雅さ、ゆとりといったものが皆無で無骨一辺倒の様子を見ての半ば揶揄だと言われている[19]。1982年発行の『ザ・ロイヤル・ネーバル・レビュース』は、本艦について「高速で兵装の強力な艦」としつつ、「しかし、美しいフネとはとてもいえない」と評した[20]。各国や個人の美意識の問題も関係しているとされる[21]。またあるイギリス人記者は「今日私は初めて軍艦を見た。今まで私が見てきたのは客船だった」と「足柄」を評した。このコメントも日本海軍はしばしば引用して、「足柄」が世界一優れた巡洋艦であるかのように宣伝したテンプレート:要出典が、これは足柄の居住性の悪さに対するイギリス流の皮肉であると言われているテンプレート:誰。ちなみに、『美女と野獣』で知られるフランスの前衛芸術家ジャン・コクトーの様に、「足柄」の機能美を絶賛している西欧人もいる[22]。
- 英国が「足柄」の「居住性の悪さ」を批判した背景には、英国の巡洋艦は本国と植民地を結ぶ長大なシーレーンを防衛するための長期間の航続能力と、その間の乗員の長期航行生活のために高い居住性が要求されていると言う事情もある。また日本海軍の軍艦そのものが、個艦の性能を向上させるかわりに居住性を犠牲にした設計思想だったことも影響している[23]。
- ジョージ6世戴冠記念観艦式に参加するためイギリスに到着した「足柄」には日本の新聞記者が乗艦していた。彼らはロンドン滞在中にチャタレイ夫人の恋人の原書を購入すると、軍艦のため税関のチェックを受けることなく日本に密輸した[24]。山本五十六海軍次官は記者から事情を聴いて大いに笑った[24]。
- 太平洋戦争開戦時、運用長のアイデアにより、空になったビール瓶や酒瓶にコルク栓をしてバルジに詰め込んだという[25]。魚雷命中によりバルジが浸水しても浮力を確保できるという構想であった[25]。
歴代艦長
艤装員長
- 小野弥一 大佐:1928年10月1日 -
- 井上肇治 大佐:1929年2月8日 -
艦長
- 井上肇治 大佐:1929年8月20日 -
- 羽仁六郎 大佐:1929年11月30日 -
- 大田垣富三郎 大佐:1930年12月1日 -
- 三木太市 大佐:1931年12月1日 -
- 横山菅雄 大佐:1933年11月15日 -
- 佐倉武夫 大佐:1935年11月15日 -
- 武田盛治 大佐:1936年12月1日 -
- 丸茂邦則 大佐:1937年12月15日 -
- 醍醐忠重 大佐:1938年6月3日 -
- 鎌田道章 大佐:1938年12月1日 -
- 中澤佑 大佐:1940年10月15日 -
- 一宮義之 大佐:1941年7月5日 -
- 阪匡身 大佐:1942年9月25日 -
- 三浦速雄 大佐:1944年1月30日 -
同型艦
脚注
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C05021151700「3教練運転関係書類の件5.5.11(1)」
- Ref.C05034650400「足柄機密第30号の63 10.10.4 軍艦足柄砲塔事故報告」
- Ref.C05110573400「官房機密第599号 12.2.18英国皇帝陛下載冠式に際し挙行せらるる観艦式に帝國軍艦参加招請の件」
- テンプレート:Cite book 福地は1937年当時海軍少佐・足柄運用長。
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
山本は機関科士官。1943年11月から1944年9月まで「足柄」勤務。 - テンプレート:Cite book
- 雨ノ宮洋之介『誇り高きオンボロ駆逐艦「神風」電探戦記 テンプレート:Small』
- テンプレート:Cite book
- 栄光の旗艦のもとに生きた四年間の艦隊勤務裏話-石井勝『わが愛する重巡「足柄」青春海戦記』 石井は1940年9月~1944年5月まで足柄主砲射撃発令所勤務。
- 中西淳『諜報部員脱出せよ テンプレート:Small』(浪速社、1994)著者は陸軍兵として足柄に乗艦。沈没を体験した。
- テンプレート:Cite book
外部リンク
関連項目
- ↑ #足柄青春海戦記206頁
- ↑ 「3教練運転関係書類の件5.5.11(1)」pp.31、36
- ↑ #足柄青春海戦記210-211頁
- ↑ #続・海軍くろしお81頁
- ↑ #続・海軍くろしお83-84頁
- ↑ #足柄青春海戦記212頁
- ↑ #足柄青春海戦記219頁
- ↑ #足柄青春海戦記236-237頁
- ↑ #足柄青春海戦記238頁
- ↑ #足柄青春海戦記248頁
- ↑ #海軍予備士官98頁
- ↑ #海軍予備士官130頁
- ↑ #足柄青春海戦記277頁
- ↑ #海軍予備士官146頁
- ↑ #海軍予備士官147頁
- ↑ #足柄青春海戦記275-276頁
- ↑ #証言神風p.289
- ↑ #証言神風p.290
- ↑ 石渡幸二『艦船夜話』(出版協同社、1984年) ISBN 4-87970-039-8 重巡随想 p113~p114を参照。
- ↑ #軍艦物語204頁
- ↑ #軍艦物語206頁
- ↑ 学研『歴史群像』2004年10月号
- ↑ #軍艦物語208頁
- ↑ 24.0 24.1 「海軍の昭和史」124頁
- ↑ 25.0 25.1 #足柄青春海戦記226頁