足利義兼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年8月24日 (日) 12:00時点における宇治主水 (トーク)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 武士

足利 義兼(あしかが よしかね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将鎌倉幕府御家人足利氏の第2代当主。

父は足利氏の祖で源義家の孫にあたる足利義康。母は藤原季範の養女(実孫で藤原範忠の娘)で、源頼朝の従姉妹にあたる。義兼は父方でも母方でも頼朝に近い存在であった。

生涯

父・義康が早世したために、幼少期には伯父である新田義重の軍事的庇護を受けていたとされる。異母兄の義清義長妾腹の子であったために、本拠の下野国足利庄を嫡出である義兼に譲り、自分たちは京において上西門院に仕えていたが、寿永2年(1183年)の水島の戦い木曽義仲の麾下として参加して戦死している。義清自身も足利の根本所領の一つの梁田御厨を管理し所領としていおり、この義清が(そして次兄の義長も同時に)亡くなったことから嫡男となったと考えられる。

義兼自身は、治承4年(1180年)に源頼朝伊豆国で挙兵すると、八条院以仁王の関係からか、比較的早い時期から頼朝に従っていた。翌治承5年(1181年)2月には頼朝の仲介を受けて北条政子の妹、時子と結婚した。このように頼朝と近い関係にあったことも嫡男となった要素の一つと言える。

元暦元年(1184年)5月、木曽義仲の子・義高残党の討伐において戦功を挙げた。その後は頼朝の弟・範頼の手勢に与して平氏討伐で戦功を挙げた。その功績により、頼朝の知行国となった上総国国司(上総介)に推挙されている。文治5年(1189年)の奥州合戦にも従軍。建久元年(1190年)に出羽国において奥州藤原氏の残党が挙兵すると(大河兼任の乱)、追討使に任じられ、乱を平定している。

義兼は、源氏一門として頼朝の「門葉」として幕府において高い席次を与えられた。だが、頼朝の門葉=一族であったがゆえに我慢を強いられ、所領関係の恩賞は少なかったといわれる。

建久6年(1195年)3月に東大寺において出家し、義称(ぎしょう)と称した。この出家は、頼朝をはじめとする周囲から排斥されることを恐れての処世術であったと言われている。その後は足利の樺崎寺に隠棲し、正治元年(1199年)3月8日に樺崎寺にて死去し、同所に葬られている。生入定であったとも伝えられている。現在の樺崎八幡宮本殿は、義兼の廟所である赤御堂である。鑁阿寺は、義兼の持仏堂を義氏が発展させたものとされる。

長男の義純は畠山氏及び岩松氏田中氏の祖となり、次男の義助は承久の乱で戦死したが、その子孫は桃井氏の祖となって世に続いた。正室所生の三男義氏が嫡男として足利氏の家督を継いでいる。

逸話・伝承・異聞

  • 運慶作と伝わる光得寺足利市)と、2008年3月に真如苑がニューヨークの競売で落札した大日如来像2体は、義兼の発願に拠るものとされ、義兼の出家の頃に刻まれたと見られている[1][2]
  • 子孫にあたる今川了俊は、自著である『難太平記』おいて、実は義兼は源為朝の子であり、義康が赤子の頃から自分の子として育てた。身丈八尺もあった。晩年には頼朝による近しい源氏の粛清をおそれて、狂ったふりをして無事に過したと書き残している[3]

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献


テンプレート:足利宗家歴代当主
  1. 峰岸(2009)pp.13-24
  2. 産経新聞 「決断の日本史 117」 2012年4月3日。
  3. 臼井(1969)