貞純親王
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貞純親王(さだずみしんのう、貞観15年(873年)? - 延喜16年5月7日(916年6月10日))は、日本の平安時代前期の皇族。清和天皇の第六皇子。母は棟貞王の娘。王子に経基王・経生王がある。桃園親王と号す。
親王任国とされる上総や常陸の太守や、中務卿・兵部卿を歴任したが、位階は四品に留まった。経基・経生の両王子が共に源姓を賜与され臣籍降下したことから、清和源氏の祖の一人となった。ただし、これについては異説があり、従来の貞純親王流とされる清和源氏は陽成天皇(親王の兄)からつながる血筋だとする説もある。また、出生年月日は貞観12年(870年)3月10日とも(『系図纂要』)。
清和源氏か陽成源氏か
いわゆる清和源氏の出自について異説があるが、その一つに陽成源氏説がある。これは、清和源氏の祖とされた経基王が陽成天皇の皇子・元平親王の皇子ではないかとする説である。これは明治の歴史学者星野恒の唱えたもので、明治30年代に石清水八幡宮祠官田中家文書の中に源頼信が応神天皇陵に納めたとされる永承元年(1046年)告文に「先人新発其先経基其先元平親王其先陽成天皇其先清和天皇」と明記してある事を根拠としたもの。しかしこの文書は写本であり、告文の裏面に校正したと但書きがあることから信憑性が疑われている。また、告文の内容は河内石川庄の相続順序に過ぎないとする説や、12世紀はじめに書かれた「大鏡」が武家源氏を清和天皇の末としていることもあり、清和源氏が正しいとする学者が多くいる。