草野直清
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草野 直清(くさの なおきよ、永正11年(1514年) - 永禄6年(1563年))は、戦国時代の武将。相馬氏の家臣。式部。
経歴
相馬顕胤に仕え、相馬中村城代となるなど重用されたが、顕胤の死後、主家に不満を抱いて青田顕治らとともに伊達輝宗と内通する。これに対して主君相馬盛胤(顕胤の子)は素早く反応し、直清は佐藤好信と相馬義胤(盛胤の嫡男)の討伐軍に攻められて討死した。
その後、盛胤は「直清が謀反に組して命を失ったのは青田の企みに引き入れられたため」として、中村城に相馬隆胤を配し直清の後室と娘を養わせた。また、盛胤は直清の娘を黒木宗俊に娶わせようとしたが、結局は相馬一門筆頭家老の岡田直胤の嫁となったため、これを宗俊が不満に思い、後の黒木兄弟の謀反の原因の一つになったといわれている。