英彦山
テンプレート:Infobox 山 英彦山(ひこさん)は、福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町とにまたがる標高1,199mの山である[1][2]。耶馬日田英彦山国定公園の一部をなす。日本百景・日本二百名山の一つ。また、弥彦山(新潟県)・雪彦山(兵庫県)とともに日本三彦山に数えられる。
概要
もとは「彦山」との表記であったが、1729年(享保14年)、霊元法皇の院宣により「英」の字をつけたという。
福岡県内では、大分県日田市との境にある釈迦岳(1,231m)に次いで2番目に標高が高い。山域は福岡県と大分県の県境未確定地域となっている。
山の中腹500m近辺に英彦山神宮奉幣殿があり、多くの参拝客が訪れる。山頂には上宮がある。2005年(平成17年)10月には、英彦山神宮へ続く参道沿いに、参道起点の銅の鳥居横から英彦山花公園を経由して参道終点の英彦山神宮奉幣殿へ至る全長849mのスロープカーが完成し、英彦山神宮奉幣殿まで約15分で行けるようになった。
石段と鎖付き岩壁で辿り着く「望雲台」と呼ばれる切り立った足場30cmの岩壁は、下界に広がる森林から突き出た鷹ノ巣山が望めるなど眺望が素晴らしく、自己責任で登るロッククライミングの名所となっている。「望雲台」は本来山伏の修行場であった[3]。
麓にある深倉峡は紅葉の名所である。深倉峡の奥の深倉園地にある奇岩「男魂岩(おとこいわ)」と、谷を隔てて対峙する「女岩」とは巨大なしめ縄で結ばれており、毎年11月に「男魂祭」が催される。
歴史
英彦山は羽黒山(山形県)・熊野大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」に数えられ、山伏の坊舎跡など往時をしのぶ史跡が残る。山伏の修験道場として古くから武芸の鍛錬に力を入れ、最盛期には数千名の僧兵を擁し、大名に匹敵する兵力を保持していたという。
この山を根拠とする豊前佐々木氏が領主であり、一族からは英彦山幸有僧という役職も出していたとの記録がある。英彦山はその後、秋月種実と軍事同盟を結んだため、天正9年(1581年)10月、敵対する大友義統の軍勢による焼き討ちを受け、1ヶ月あまり続いた戦闘によって多くの坊舎が焼け落ち、多数の死者を出して大きく勢力を失った。大友氏の衰退後は、新領主として豊前に入った細川忠興が強力な領国経営を推し進めたため、佐々木氏とともにさらにその勢力は衰退したという。
なお、豊前佐々木氏は添田の岩石城を居城としていた。豊臣秀吉による九州征伐の際には秋月氏方として香春岳城に続いて攻撃され、一日で攻め落とされたが滅ぼされず、細々と生きのこっている。巌流島の決闘で有名な佐々木小次郎はこの豊前佐々木氏の出身であり、またその流派・巌流は英彦山山伏の武芸の流れをくむとする説がある。[4][5][6]その説によれば、巌流島の決闘自体が、宮本武蔵を利用して当主である小次郎を殺害させることによる、細川氏の豊前佐々木氏弱体化工作であったという。
逸話
彦山豊前坊という天狗が住むという伝承がある。豊前坊大天狗は九州の天狗の頭領であり、信仰心篤い者を助け、不心得者には罰を下すと言われている。英彦山北東に建てられている高住神社には御神木・天狗杉が祀られている。また古くからの修験道の霊地で、全盛期には多くの山伏が修行に明け暮れた。 1945年11月12日、武装解除の一環として占領軍が行った火薬処理の焼却に失敗し、山全体と多数の民家が吹き飛ばされて死者147人、負傷者149人を出した。 2014年6月30日、遠足登山中の柳川高等学校の女子生徒計26人が集団パニックに陥いり、油木ダム周辺で心霊に取り付かれたのではないかとの噂がネットで流れた[7]。
関連項目
脚注
参考文献
- 長野覚著『英彦山修験道の歴史地理学的研究』名著出版、1987年。
外部リンク
テンプレート:Commons category テンプレート:日本二百名山 テンプレート:一等三角点百名山
テンプレート:Mountain-stub- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ GNSS測量等の点検・補正調査による2014年4月1日の国土地理院『日本の山岳標高一覧-1003山-』における改定値。なお、旧版での標高は1,200m。
- ↑ 2009年4月15日放送テレビ朝日ナニコレ珍百景より
- ↑ 佐々木小次郎豊前添田説 その1 添田町役場 公式
- ↑ 佐々木小次郎豊前添田説 その2
- ↑ 佐々木小次郎豊前添田説 その3
- ↑ 「悪霊テークアウト」?女子生徒集団パニック 産経ニュース 2014年7月3日付