羽田亨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
羽田 亨(はねだ とおる、1882年(明治15年)5月15日 - 1955年(昭和30年)4月13日)は東洋史学者。京都大学名誉教授。文化勲章受章者。 文学博士(京都帝国大学、1922年)。京都府峰山町(現・京丹後市)生まれ。
経歴
内藤湖南・桑原隲藏らと共に京大東洋史学の黄金期を築き、「塞外史」の「西域史」の研究においてユーラシア大陸各地の遺文を解明するなど、日本の西域史学の確立に貢献した。内藤・桑原の亡き後は、宮崎市定や田村實造らを率い、世界的な東洋史研究の拠点としての京大の立場を確固たるものとした。
1938年には、同じ文学部教授であった濱田耕作京都帝国大学総長の急逝に伴い後任総長に任ぜられ、厳しい時局の中で人文科学研究所・結核研究所・木材研究所などの設立に尽力した。また、広い学識と知見を持った羽田の弁舌は、しばしば他大学の総長を圧倒した。その弁舌をもって、1943年には大学院学生の特別研究制度を実現させた。京大農学部グラウンドで行われた学徒出陣式の際には「諸君、行き給え。そして帰り給え。大学は門を開いて諸君を待っている」という訓示を行い、多くの学生が涙したと言われる。なお京都帝国大学・京都大学では、羽田を最後に文学部から総長に選ばれた者はいない。
息子の羽田明も東洋史学者(中央アジア史)、孫の羽田亨一は西アジア史(イラン史)研究者(東京外国語大学名誉教授)、同じく孫の羽田正はイスラーム史学者(東大教授)である。主著の一つである『西域文明史概論・西域文化史』は、1992年平凡社東洋文庫から復刊された。
年譜
学歴
- 1904年 - 第三高等学校卒業
- 1907年7月 - 東京帝国大学文科大学史学科卒業(指導教官・白鳥庫吉)
- 1907年9月 - 内藤湖南に招かれ、新設の京都帝国大学東洋史学講座の大学院に入学 たった1人の大学院生であった
職歴
- 1909年9月 京都帝国大学文科大学史学科講師(東洋史学第二講座)
- 1913年4月 京都帝国大学文科大学文学科助教授(言語学講座 教授は新村出)
- 1924年4月 京都帝国大学文学部教授(東洋史学第三講座)
- 1928年2月-5月 京都帝国大学評議員
- 1928年7月-1930年12月 京都帝国大学評議員
- 1932年10月-1934年10月 京都帝国大学文学部長
- 1936年10月-1938年11月 京都帝国大学附属図書館長
- 1938年11月-1945年11月 京都帝国大学総長
- 1945年2月 - 東方文化研究所所長(兼任)
- 1946年3月 - 同大学定年退官、京都帝国大学名誉教授。東方文化研究所所長(専任)
- 1948年3月 同所退所
学外における役職
受賞歴・叙勲歴
- 1945年 - 勲一等瑞宝章受章
- 1952年 - フランス学士院よりジュリアン賞受賞
- 1953年 - 文化功労者
- 1953年 - 文化勲章受章
- 1953年 - 京都市名誉市民
- 1955年 - フランス共和国よりレジオンドヌール勲章オフィシエ章受章
編著書
著書
- 中等東洋史教科書 富山房 1916
- 元朝駅伝雑考 東洋文庫 1930
- 西域文明史概論 弘文堂書房 1941
- 西域文化史 座右宝刊行会 1948
- 羽田博士史学論文集 上下巻 東洋史研究会 1957
- 西域文明史概論.西域文化史 平凡社東洋文庫 1992、解説:間野英二
編著
- 燉煌遺書 第1集 ポール・ペリオ共編 東亜攷究会 1926
- 支那学論叢 内藤博士還暦祝賀 弘文堂書房 1926
- 東洋史教授資料 富山房 1932
- 満和辞典 京都帝国大学満蒙調査会 1937
記念論集
- 東洋史論叢 羽田博士還暦記念会 東洋史研究会 1950
回想
- 『東方学回想 Ⅳ 先学を語る〈3〉』(刀水書房、2000)、弟子達の座談会での回想を収録。