羽柴秀勝

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テンプレート:Otheruseslist テンプレート:基礎情報 武士 羽柴 秀勝(はしば ひでかつ)は、安土桃山時代武将織田信長の四男(もしくは五男[1])で、羽柴秀吉の養子。幼名は於次(おつぎ)または於次丸(おつぎまる)。他の秀勝と区別するため、歴史家は便宜上これを於次秀勝(おつぎ ひでかつ)と呼ぶことが多い。

生涯

永禄11年(1568年)、織田信長の四男(もしくは五男)として生まれる。母は不詳だが、のちに秀勝存命中に羽柴秀吉と対立した佐々成政が、娘を秀勝の弟・織田信高に嫁がせていることから、信高の母と同じか下回る身分の女性が母であったものと思われる。

天正7年(1579年)、子のなかった羽柴秀吉の養子となった。羽柴秀吉の領地のうち近江北部の長浜領では、天正9年(1581年)2月頃より秀勝発給の文書が増え、長浜支配は秀吉より秀勝に委託されていた[2]

天正10年(1582年)3月、秀吉が備中を攻めると、それに随って備中児島城攻めで初陣を果たし、高松城攻めにも参加した。6月、実父の織田信長が本能寺の変で横死した後、山崎の戦いでは異母兄・織田信孝と共に弔い合戦の旗印とされた。また、秀吉が主導して行った信長の葬儀では秀勝が喪主を務めた。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加している。時期は不明ながら、内藤元種の娘(毛利輝元の養女)と婚約している。織田家領の再分配を決めた清洲会議の際には、明智光秀の旧領で京都に近い要地である丹波亀山城を与えられた。

しかしその後病床に就き、天正13年(1585年)12月10日、丹波亀山城で病死した。享年18。法名は瑞林院殿賢岩才公大禅定門と名付けられ、墓所は高野山と大徳寺総見院に存在する。木像は知恩寺瑞林院、肖像画が大徳寺本坊・知恩寺に残る。

その他

  • 一説によると、秀吉の長浜城主時代には初めての実子を南殿と呼ばれる女性との間に得たが、幼児のうちに失った。その実子の名前も秀勝と伝えられている。長浜(現在の滋賀県長浜市)にある妙法寺には、羽柴秀勝像と伝わる子どもの肖像画や、秀勝の墓といわれる石碑、位牌が存在する。
  • 長浜で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭の始まりは、当時長浜城主だった秀吉が男子誕生に喜んで祝いの砂金を町民に贈り、それに応えて町民たちが山車を作り、長浜八幡宮の祭礼に曳き回したことが始まりとされている。
  • 彼の死は秀吉による謀殺だという説がある。すでに関白になり政権を奪取した秀吉にとって、織田家の血を引く秀勝は邪魔者だったために殺され、同じ名前の人物(豊臣秀勝)にすり替えられたというものである。が、朝廷の官位につく重要人物をすり替えて気づかれないか(特に織田家・朝廷の重要人物から)と言う疑問があり、俗説の域を出ない。

家臣

脚注

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参考文献

  • 柴裕之「羽柴秀吉の領国支配」(収録:戦国史研究会編集『織田権力の領域支配』岩田書院、2011年4月。ISBN 978-4-87294-680-2)

関連項目

  • 『天正記』
  • 柴、2011年