義帝

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義帝(ぎてい、生年不詳 – 紀元前206年)は、末の反秦勢力の名目上の盟主。西楚の君主。秦滅亡後の一時的な中国の傀儡皇帝(び)。名は(しん)。楚の懐王の孫(一説では玄孫とも)。

「義」は「かり」の皇帝であることを意味する(他の用例: 義父義手)。

略歴

楚の滅亡後は地方に逃れて、羊飼いとして暮らしていた。秦末の動乱期に楚の名家の末裔項梁に迎えられ、楚王に即位し、祖父(一説では高祖父)の名を受け継ぎ、懐王を名乗る。

定陶で項梁が戦死すると、宋義劉邦を用い、項梁の跡を継いだ項羽を牽制しながら、反秦勢力の盟主として、いわゆる「懐王之約」[1]を発布して彭城で戦争指導に当たった。

紀元前207年、劉邦が咸陽に一番乗りして、秦王子嬰を降伏させ、その後に項羽が大軍を率いて咸陽に入ると、懐王は「約を実行せよ」と、諸将に厳命するも、項羽はこれを無視し、一番乗りした劉邦には約束である関中を与えなかったりと自ら独断で諸侯を封建し、自身は「西楚の覇王」を名乗り、懐王には「義帝」の称号を奉じ、彭城を出て僻地に転居することを迫った。

義帝はやむなくこれに従うも、その道中で項羽に派遣された英布に殺害された。なお、その殺害場所や実行者については諸説が存在し、長江で英布部下の呉芮共敖に殺されたとも記されている。

後に韓信劉邦によって、楚王に封じられる際の会話から、義帝には子がなかったことがわかっている。

死の影響

義帝の死により、反秦勢力の実質上の盟主もしくは秦滅亡後の中国の実質上の元首としての項羽の政治上の正統性が失われた。これによって楚漢戦争で劉邦は大逆を犯した項羽を天に代わって討ち果たすという大義 (倫理的な正当性)を得ることとなり、項羽の滅亡ひいては王朝の成立へとつながっていく。

脚注

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先代:
景駒王
西楚
第2代
次代:
  1. 懐王之約とは秦の首都咸陽に一番乗りを果たした者に秦の本貫の地・関中を与えるというものである。