織田信定
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織田 信定(おだ のぶさだ、信貞とも)は、戦国時代初期の武将。織田大和守家(清洲織田氏)の家臣。清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の当主。尾張国勝幡城城主。織田信長やお市の方の祖父にあたり、お市の方の系統からは今上天皇も生まれている。
系譜
本姓は自称藤原氏(忌部氏とも言われる)。家系は越前国織田庄 劔神社の祠官の系譜を引く、尾張守護・斯波氏の被官 織田氏。信定の家系は尾張下四郡守護代に補任された「織田大和守家」の分家で同家の重臣である清洲三奉行、勝幡城主の家柄。
生涯
清洲城を本拠とした織田大和守家当主の織田達勝のもとで奉行の地位にあり代々弾正忠と号した。また、弾正左衛門尉とも称する。永正13年(1516年)妙興寺の寺領や末寺を安堵する連署状に「織田弾正忠信貞」と署名があるため、「清洲三奉行」の一人とされている。
中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、津島に居館を構えた。この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。そして永正年間に勝幡城を築城し、大永年間に津島の館から拠点を移した。天文年間初めに嫡男信秀に家督を譲って隠居した。この際、木ノ下城に移り、勝幡城を信秀に与えたとされる。