童子切
童子切(どうじぎり)は、平安時代の伯耆国の刀工・安綱作の日本刀(太刀)。
天下五剣の一つで、大包平と共に「日本刀の東西の両横綱」と称される最も優れた名刀とされている。日本の国宝に指定されている。
概要
国宝指定名称は「太刀 銘安綱(名物童子切安綱) 附 絲巻大刀 梨地葵紋散蒔絵大刀箱」(たち めい やすつな めいぶつどうじぎりやすつな つけたり いとまきたち なしじあおいもんちらしまきえたちばこ)。
刃長二尺六寸五分(約80.3cm)、反り鎺(はばき)元にて約一寸(3.03cm)、横手にて約六分半(1.97cm)、重ね(刀身の厚さ)二分(約0.6cm)。造り込みは鎬造(しのぎづくり)、庵棟(いおりむね)。腰反り高く小切先。地鉄は小板目が肌立ちごころとなり、地沸(じにえ)が厚くつき、地斑(じふ)まじり、地景しきりに入る。刃文は小乱れで、足よく入り、砂流し(すながし)、金筋(きんすじ)入り、匂口深く小沸つく。帽子は小丸ごころに返り、掃き掛ける。茎(なかご)は生ぶ。先は栗尻。鑢目(やすりめ)は切。目釘孔1つ。佩表に「安綱」二字銘を切る。制作は平安時代後期とされる[1]。
なお、刀身と共に金梨地鞘糸巻拵えの陣太刀様式の外装が現存しているが、この拵えは江戸時代初期に製作されたものであり、それ以前に収められていた拵えがどのようなものであったのかは判然としていない。
斬れ味に関して、江戸時代に町田長太夫という試し斬りの達人が、6人の罪人の死体を積み重ねて童子切安綱を振り下ろしたところ、6つの死体を切断しただけではなく刃が土台まで達した、という逸話が残っている。
伝来
清和源氏の嫡流である源頼光は、丹波国大江山に住み着いた鬼・酒呑童子の首をこの刀で切り落としたという。「童子切」の名はこの伝説に由来し、享保4年(1719年)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が本阿弥光忠に命じて作成させた、『享保名物帳』にも「名物 童子切」として記載されている。
酒呑童子の征伐に用いられた他にも、松平光長が幼少の頃、疳の虫による夜泣きが収まらないのでこの刀を枕元に置いたところたちどころに夜泣きが止んだ、浮かんだ錆を落とすために本阿弥家に持ち込んだところ近隣の狐が次々と本阿弥家の屋敷の周囲に集まってきた、等の様々な逸話が伝わっている。
足利将軍家から豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠、松平忠直に継承され、越前松平家の高田藩から津山藩に継承された。津山松平家では、この童子切と稲葉郷、石田正宗の3振の名刀を家宝として伝えた。明治に入って後も津山松平家の家宝として継承され、1933年(昭和8年)1月23日付で子爵松平康春の所有名義で国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されている。文化財保護法に基づく国宝に指定されたのは1951年(昭和26年)である。
太平洋戦争終戦後、津山松平家から手放され、個人所蔵家の所有となった。1962年(昭和37年)に文化財保護委員会(文化庁の前身)によって買い上げられ、現在は東京国立博物館に所蔵されている[2]。
脚注
テンプレート:Reflist 刀剣用語の説明
- 肌立つ - 「肌約(つ)む」の反対語で、地鉄の鍛え肌が目立つものをいう。
- 地沸 - 刃文を構成する鋼の粒子が肉眼で1粒1粒見分けられる程度に荒いものを沸(にえ)、1粒1粒見分けられず、ぼうっと霞んだように見えるものを匂(におい)と称する。沸も匂も冶金学上は同じ組織である。沸と同様のものが地の部分に見えるものを地沸と称する。
- 足 - 地と刃の境から刃縁に向かって延びる短い線状のものを足、同様のものが刃中に孤立しているものを葉(よう)という。
- 金筋、地景、地斑 - 刃中の沸がつらなって線状となり、光って見えるものを指す。同質のものが地の部分に現れるのを地景といい、地鉄の鍛え目に沿って斑紋状に見えるのを地斑という。
- 匂口 - 地と刃の境目。これが線状に細く締まっているものを「匂口締まる」と言い、その他作風によって「匂口深い」「匂口冴える」「匂口うるむ」等と表現する。
- 帽子 - 切先部分の刃文のことで、流派や刀工の個性が現れやすく、鑑賞、鑑定上も見所となる。
関連項目
外部リンク
- 特別展図録『御在位60年記念 日本美術名宝展』、東京国立博物館・京都国立博物館、1986
- 『ブック・オブ・ブックス 日本の美術42 甲冑と刀剣』、小学館、1976(解説は佐藤寒山)
- 『週刊朝日百科 日本の国宝 45』、朝日新聞社、1997(解説は小笠原信夫)
- 「国宝・重要文化財等の国の買取り」『月刊文化財』158号、第一法規、1976
- 文化庁文化財保護部美術工芸課監修『文化財保護行政ハンドブック 美術工芸品編』、ぎょうせい、1998、p.151