真田昌輝

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テンプレート:基礎情報 武士 真田 昌輝(さなだ まさてる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田家の家臣。

甲斐武田家の騎馬50騎持の侍大将[1]。父は真田幸隆で次男[1]。同母兄に信綱、同母弟に昌幸、信尹らがいる[1]。幼名を徳次郎。兵部丞[1]、兵部少輔。名は信輝とも。武田二十四将にも数えられる。長篠合戦で奮戦するも戦死した[1]

生涯

天文12年(1543年)6月に岩尾城で生まれたとするが、異説もある[1]

小姓として武田信玄に近侍し、器量を見抜いた信玄により、有力武将の子弟が任じられる「百足衆」に抜擢される。信玄に常に付き従い、「一之先衆七千」を務め、「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという逸話が残っている。現在の本で、弟の昌幸が「我が両眼なり」と称せられたかのように記載された書籍があるが、それは誤認であり、「我が両眼なり」と称せられたのは、兄である昌輝の方である。

甲陽軍鑑』では、信玄から別家を立てる事を許されて独立し、真田本家の長兄・真田信綱の200騎とは別に50騎を預かる将として活躍し、信州先方衆の副将格であった[1]。なお、所領は真田郷の周辺に与えられたと思われるが、在城地などは不明[1]。兄・信綱とともに出陣する事が多かったが、単独でも出陣、戦功を挙げた。

永禄11年(1568年)には信綱と駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは信綱や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは、最右翼の馬場美濃守、そのすぐ左翼の兄信綱のさらに左横に陣取り、右翼部隊の一端を担う。5月21日の設楽原決戦においては、織田軍の左翼を受け持った佐久間信盛の陣に突撃すると、「丸山」と呼ばれる小高い丘を奪い合う局地戦を展開。ここでは、首級を挙げるなど奮闘するが、深手を負い奮闘虚しく信綱とともに討死した。享年33、法名は嶺梅院殿風山良薫大禅定門。設楽ヶ原に墓が現存する。

子の真田信正は徳川家に仕え、忠昌に従って越前に在し、子孫は越前松平家に仕えた[1]。今も越前真田家として存続している[1]

脚注

註釈

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出典

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参考文献

書籍
史料
  • 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「.E7.9C.9F.E7.94.B0.E6.98.8C.E5.B9.B8p71」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません