皇極暦

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皇極暦(こうきょくれき)は、劉焯が編纂した太陰太陽暦暦法六朝時代天文学の成果をすべて取り入れた画期的なであり、隋の文帝煬帝に幾度か新暦の採用を求めたが、当時の太史令の反対にあったり、劉焯自身が死去したこともあって、結局、施行されることはなかった。しかし、採用されることはなかったものの、麟徳暦大衍暦といった代の暦に大きな影響を与えた。

676年に249閏月を置く破章法を採用し、1太陽年を<math>365\frac{11406.5}{46644}</math>日(≒365.24454日)、1朔望月を<math>29\frac{659}{1242}</math>日(≒29.53059581日)とした。

歳差については76年1度の値をとり、さらにの決定に定朔法を採用した。

また、北斉張子信によって太陽の年周視運動の不均等性、すなわち中心差が発見されていたが、はじめての計算に導入された。

その日月運行の計算方法には補間法が用いられている。

関連項目