燼滅作戦
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燼滅作戦(じんめつさくせん)、または燼滅掃討作戦(じんめつそうとうさくせん)は、日中戦争(支那事変)中に旧日本軍の陸軍、特に北支那方面軍などが1940年8月2日以降、中国華北を中心に、抗日ゲリラ対策として行われた根拠地とみなした地域への根絶作戦である。一般には、「殺し尽くす・奪い尽くす・焼き尽くす」を意味する三光作戦(さんこうさくせん)という呼称で知られる。主に共産党の八路軍根拠地に対しておこなわれた。2004年7月に防衛庁はかねてから存在の知られていた戦時史料あんの歩兵第二二四聯隊「冬季山西粛正作戦戦闘詳報」(下記参照)を公開し、その中で山西省での燼滅作戦における撒毒指示(毒ガスではないかとされる)が認められた[1][2]。
三光作戦
対応する中国語の呼称は三光作戦であり、1941年の『解放日報』に初出が見られるという(尚、当時の『解放日報』は、中国共産党の博古が責任者を務めている)。三光とは、殺光・焼光・搶光をさし、それぞれ殺し尽くす・焼き尽くす・奪い尽くすことを意味する漢語である。(北方漢語で「~光」という接尾詞は「~しつくす」という意味になる。) 日本の資料には燼滅作戦等の名称で記されている。日本では撫順戦犯管理所等に収容され後に解放された中国帰還者連絡会が1957年に発行した『三光』からこの「三光作戦」という呼称が広がったとされる。テンプレート:要出典
ちなみに現在の中国において三光作戦の司令官とされている岡村寧次は南京裁判では石美瑜裁判長の判決により無罪となり、日本に帰国している。これは岡村が戦後国民党に対して協力的な態度をとったことと、また三光作戦が実施された北支が国民党の政敵である中国共産党の支配域だったことが影響しているとテンプレート:誰範囲2
通常、日本語では「三光(参照:Wiktionary)」と言うと三光鳥/サンコウチョウの呼び名などでも知られるように、大抵は「日・月・星」の三つの光を指して言う。かつては、三光汽船という名の会社も在り、現在でも企業名や学校名などに日・月・星から付けた「三光」という名が見られる。そのような言葉を戦術名に使うというイメージのギャップから、日本人の間では信憑性を疑問視している人も少なくない。
戦術としてよく知られた呼称が中国語であることなどから「三光作戦は中国側のプロパガンダだ」と言われ、また「三光作戦」に言及することが「左派系のプロパガンダ」とされることも多く、これらの行為の実態はその有無も含めて議論がある。「中国国内戦史でそのような作戦が行われていた事実がある」という説を唱える者もいる。その中には「中国側は清野作戦という家屋を全て焼払い、敵に隠れる場所を与えない作戦を採用しておりこれが日本軍の仕業にされた」という説もある。これに対して、それらは「三光作戦」と同視できないとする説も近年つくる会などから提唱されている。しかし、三光政策という呼称で歴史的事実という立場をとる説もある[3]。日本側の資料としては、北支那方面軍司令官を務めた岡部直三郎の日記によれば、岡部は部下から「兵器製造所、病院、印刷所等を滅燼する外、敵の宿営不可能の程度に村落を焼却す」、また「行動地域内の村落は徹底的に焼却す。(略)新品被服、未完成品600着、その他弾薬等多数を集積する被服工場を発見し、焼却す。糧秣集積所に多数の岩塩を発見し、これを河中に投入す。共産紙幣及び法幣の若干を押収す」などの作戦報告を受けており、テンプレート:独自研究範囲軍民の選別がどの程度行われていたかは不明。
冬季山西粛正作戦戦闘詳報
三光作戦の根拠の一つとされる歩兵第二二四聯隊「冬季山西粛正作戦戦闘詳報」には以下の記述がある。
其三、住民地の状態一、住民 殆ンド逃避シアリ為情報収集二不便ヲ感ズ
掃討二際シテ土民ヲ獲得セル時ハ大部分成功ス
日本軍が到着した際には住民の殆どが既に逃げた後であり、掃討を行った際に住民を容易に獲得できたとしている。 つまり三光の”殺し尽くした”の主張と反した内容が書かれている。[4]。
中国共産党の報復清野を奨励する方法
報復清野を奨励する方法(大公報所載より抜粋)
共匪は大いに階級闘争を主張する故に地方の不良分子は平素些細の事にも相争いあって報復する。其れは口訴、文書、孰れも歓迎するのである。報告があれば隊を派遣して包囲し其の者を縛り上げ其の者の財を掠める。如何に誣枉せられても辨訴の権利はない。甲が乙を訴ふれば乙を縛し丙が甲を訴ふれば又甲を縛し丁が丙を訴ふれば又斯くの如し、順繰りに拘引し瓜蔓の如くに連行する金銭を以て刑を贖うものは別として其の大部分は首を連ねて殺される。一地を占領する毎にまず現金を取り上げ次ぎに首飾り、次ぎに布疋次ぎに家畜、次ぎに食糧とあるだけのものを匪巣に搬入する。従ってそれ等の地方は家は岩家の如く食うにも蓄えの食糧なく鼠雀の外に家畜なく鍬鋤の外に金物は殆ど見当たらない。青野を励行して国軍の新軍討伐に困難を感ぜしめる、計略としてこれほど甚だしいものはない。
脚註
関連文献
- 神吉晴夫 編『三光 日本人の中国における戦争犯罪の告白』(光文社カッパ・ブックス、1957年)
- 秦郁彦 編『昭和史20の争点』(文藝春秋)
- 田辺敏雄『検証旧日本軍の「悪行」』(自由社)
- 山上たつひこ 『光る風』(『少年マガジン』連載、1970年)