渡辺津
渡辺津(わたなべのつ)は、平安時代から室町時代にかけて、摂津国の旧淀川左岸の河口近くに存在していた港湾である。「窪津(九品津)」とも呼ばれていた。
概要
現在の大阪市の中心部、天満橋から天神橋の間くらいの位置で旧淀川に面しており、往時にはこのすぐ南の高麗橋から北船場一帯が入り江となっていて、この位置に中世当時の港湾最奥部が存在していたことが考古学的に明らかになりつつある。これに付随して、上町台地の北端の西部一帯に市街地が広がっていたと考えられている。かつて奈良時代まで難波津や難波京があった場所がそのまま首都・副都でなくなった後も港湾として機能し続けたものである。
8世紀末に朝廷の首都が奈良盆地(平城京、藤原京)から京都盆地(長岡京、平安京)へ北遷すると、首都の外港は、古墳時代以前からその責を担ってきた淀川左岸・大和川水系・大阪湾東岸の各港湾から、京都盆地から交通至便な淀川右岸・神崎川水系・大阪湾北岸へと移ることとなり、平安時代以降は、専ら神崎湊・川尻湊(兵庫県尼崎市)、兵庫湊・大輪田泊(兵庫県神戸市兵庫区)などが、首都と西国や大陸方面を結ぶ東西交通軸上の外港として繁栄することとなった。
しかし、上代以来の難波の地は、和泉国から北へ細長く延びる尾根筋である上町台地の北の突端部に位置しながら、淀川本流に直接面しており、平安京から南下して紀伊半島方面へ向かうには、絶好の上陸地点にあった。このため、難波の地は、平安時代以降、紀伊半島ルートの玄関口として、近畿地方の南北交通軸の枢要を担う重要港湾としての地位を確立することになる。
更に、平安時代後期以降、都の貴族層の間で熊野信仰や浄土教が盛んになると、紀伊半島南部に向かう熊野巡礼のスタート地点として、また四天王寺を中心として、大阪湾に沈む日没を上町台地上から拝みながら西方浄土をイメージする勤行(日想観)の拠点として、宗教的に重要な意味を占める土地になった。熊野古道も渡辺津を起点として上町台地を尾根伝いに南下しており、熊野巡礼最初の社である窪津王子もこの地にある。
また、神社信仰の点からも、16世紀末に豊臣秀吉が大坂城築城のため移転させるまで、生国魂神社およびが坐摩神社がこの地に立地しており、平安時代において天皇即位の際の重要神事として行われた八十島祭も、ここで行われた。戦国時代には生国魂神社に隣接する形で石山本願寺が築かれ、戦国時代末期には渡辺津は石山本願寺寺内町と一体化していったと考えられている。
このような重要港湾の支配に成功した一族は繁栄が約束されることになる。平安時代後期に、嵯峨源氏の源綱がこの地に住んで渡船業を支配し、自らの生業にちなみ渡辺氏を名乗った(渡辺綱)。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、水運や船舶に関する知識技能を生かして水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となる。その代表的な支族は北九州の松浦氏であり、松浦氏を惣領とする松浦党である。豊臣氏家臣の渡辺氏や徳川氏譜代の渡辺氏もまたその末裔を名乗っている。
補説
- 中之島を渡る四つ橋筋の橋に「渡辺橋」があるが、これは渡辺津の繁栄にちなみ江戸時代につけられた名前で、渡辺津のあった場所からは若干下流に当たる。
- 上記、坐摩神社のある場所も「渡辺」というが、ここも豊臣秀吉によって渡辺の地名ごと現在地に移転させられたもので本来の渡辺津からは離れている。現在の住所は大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺だが、1988年(昭和63年)の地名変更まではここを渡辺町といっていた。渡辺の名のルーツが消えるのに反対する運動が渡辺氏の末裔の間で起こり、結局丁目の後ろの番地の代わりに渡辺の名が残ることになった。