河原隆一

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テンプレート:Infobox baseball player 河原 隆一(かわはら りゅういち、1971年8月10日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手投手)。

経歴

プロ入り前

市立横浜商高時代は、1989年第61回選抜高等学校野球大会に出場、準決勝で種田仁元木大介率いる上宮高に敗退。卒業後は、関東学院大学に進学。

大学時代は、1993年全日本大学野球選手権大会で準優勝、対久留米大学戦で当時の大会記録の17奪三振を記録。同年のドラフト会議で横浜ベイスターズを逆指名し、ドラフト1位で入団。当時巨人も獲得を目指し、横浜以上の金銭条件を提示したが地元の横浜が選ばれた。

プロ入り後

1995年4月11日、対巨人戦で初登板。

1997年4月13日、対広島戦で初勝利。大矢明彦監督により左の中継ぎとして起用され、この年の最多登板を記録するも、防御率は6点台と奮わなかった。

1998年、優勝したこの年にも30試合の登板を記録しているが、同じ中継ぎ左腕の阿波野秀幸関口伊織に比べて優勝への貢献は今ひとつであった。

2004年戦力外通告を受け、合同トライアウトを受けたがどこからも声がかからず現役引退。

引退後は横浜の球団職員に転身し、スカウトを務めている[1]

プレースタイル・人物

  • アマ時代は快速球を投げる豪腕投手であり「神奈川のドクターK」と呼ばれていたが、制球力に難があり、プロ入り後いく度かフォーム変更をし、最終的にサイドスローに落ち着いた。しかし、問題の制球力は改善される事はなく、球速も落ちた。そのため、左打者に対するワンポイント登板で四球を与えてしまいそのまま交代することが頻繁にあり左殺しとして機能しなかった。
  • 金本知憲は彼を非常に苦手としていた。
  • ワンポイントとしての起用が多かったため、投球回数が登板試合数を下回るという記録を残している。
  • 愛称は、カツオサザエさんカツオに顔が似ているため)。
  • ドラフト1位で指名された際、同僚から普通は胴上げされたり、騎馬戦の騎馬の格好をしてくれるものであるが、河原は横ばい(うつ伏せ)の河原を、同僚達が頭上を通す(つまり運動会の大玉送りの図式)パフォーマンス(その際河原は両手の人差し指と中指を眉毛の所に当てたウルトラマンの光線のポーズ)を見せた。

詳細情報

年度別投手成績

テンプレート:By2 横浜 14 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 63 13.2 12 1 12 1 0 11 4 0 12 12 7.90 1.76
テンプレート:By2 9 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 44 7.1 5 1 17 0 2 4 2 0 9 9 11.05 3.00
テンプレート:By2 66 2 0 0 0 1 3 0 -- .250 231 48.2 67 6 24 1 2 43 3 0 40 34 6.29 1.87
テンプレート:By2 30 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 113 24.2 21 5 21 0 1 21 2 0 15 15 5.47 1.70
テンプレート:By2 27 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 119 27.2 23 2 12 0 2 24 4 0 15 12 3.90 1.27
テンプレート:By2 47 0 0 0 0 2 2 2 -- .500 271 59.2 63 4 27 4 2 71 3 0 30 23 3.47 1.51
テンプレート:By2 15 5 0 0 0 0 2 0 -- .000 151 30.1 35 4 27 1 3 23 1 0 25 25 7.42 2.04
テンプレート:By2 34 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 83 16.1 23 1 12 1 0 21 0 1 13 11 6.06 2.14
テンプレート:By2 29 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 89 17.0 24 3 13 1 2 13 0 0 16 16 8.47 2.18
通算:9年 271 7 0 0 0 5 11 2 -- .313 1164 245.1 273 27 165 9 14 231 19 1 175 157 5.76 1.79
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

  • 初登板:1995年4月11日、対読売ジャイアンツ1回戦(横浜スタジアム)、8回表に3番手として救援登板・完了、2回無失点
  • 初奪三振:同上、8回表に岡崎郁から
  • 初黒星:1996年9月8日、対ヤクルトスワローズ23回戦(下関球場)、延長12回表に8番手として救援登板・完了、2回2/3を1失点
    この試合では延長14回表に失点1を喫し、その裏の攻撃では代打を送られず最後の打者となった。 これは横浜ベンチに控えの野手が残っていなかったためでる。
  • 初勝利:1997年4月13日、対広島東洋カープ3回戦(横浜スタジアム)、延長12回表に4番手として救援登板・完了、3回無失点
  • 初先発:1997年7月6日、対広島東洋カープ14回戦(横浜スタジアム)、2回2/3を3失点
  • 初セーブ:2000年8月12日、対ヤクルトスワローズ19回戦(横浜スタジアム)、7回表2死に5番手として救援登板・完了、1回1/3を無失点(雨天コールド)
  • 3者連続3球三振:2001年5月1日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、5回裏に岩村明憲土橋勝征藤井秀悟から ※史上13人目(セ・リーグ8人目)

背番号

  • 15 (1994年 - 2003年)
  • 32 (2004年)

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:横浜ベイスターズ1993年ドラフト指名選手
  1. 週刊ベースボール2014年3月24日号 P21