沢田教一
沢田 教一(さわだ きょういち、1936年2月22日 - 1970年10月28日)は、日本の報道写真家。ベトナム戦争を撮影した『安全への逃避』でハーグ第9回世界報道写真コンテスト大賞、アメリカ海外記者クラブ賞、ピューリッツァー賞を受賞した。
略歴
- 1936年(昭和11年)2月22日 - 青森県青森市寺町(現青森市橋本)生まれ。父は郵便局員。13歳の時新聞配達のアルバイトをし600円のボックスカメラを買ったのが写真との出会いであった。
- 1948年(昭和23年) - 青森市立沖館中学校に入学し、英語教師から写真技術の手ほどきを受けた。また新品のミノルタ製6×6cm判カメラを譲られた。
- 1950年(昭和25年) - 青森県立青森高等学校入学。同級には寺山修司がおり、授業をさぼって一緒に映画を見に行くこともあったが、特に親しい間柄ではなかったという。
- 1953年(昭和28年) - 高校卒業。
- 1955年(昭和30年) - 早稲田大学の受験に二度失敗し進学を諦め帰郷。青森市の小島写真店にアルバイトとして就職。間もなく三沢基地内の分店に移った。働きながら写真技術を習得するとともに店主で写真家の小島一郎の影響を受ける。この時、職場の11歳年上の先輩である田沢サタと知り合う。この頃触れたロバート・キャパの『イメージズ・オブ・ウォー』やアンリ・カルティエ=ブレッソンの『決定的瞬間』に驚き、憧れるようになった[1]。この頃中古でライカM2を入手した。
- 1956年(昭和31年)12月 - サタと結婚。
- 1960年12月に青森ロッジでフリーメイソンになった[2]。
- 1961年(昭和36年)7月 - 上京して写真の仕事を探し、12月UPI通信に職を得た。
- 1963年(昭和38年)2月11日 - サンケイ新聞写真部に採用され、UPIに籍を置いたまま休暇を取って出勤したが2月19日に退社した。
- 1964年(昭和39年)末 - UPI支局員として皇太子夫妻の訪タイを取材しての帰りに香港で岡村昭彦と会い、「いまからベトナムに行ってもおそくはないだろうか」と相談し、ベトナム取材の決心を固めた[3]。UPIの日本国内配信業務をしているサンテレフォトの森垣辰巳に相談し、森垣辰巳が地方新聞11社の集まり「火曜会」に打診した結果、週2回写真と記事を送ることを条件に信濃毎日新聞や熊本日日新聞など8社が各々150から200ドルの取材費を出すことになった[4]。
- 1965年(昭和40年)2月1日 - 1ヶ月の休暇を取って自費でベトナムに渡り取材を始めた。この時期はベトナム戦争が全面戦争に発展した時期と偶然合致し、UPIサイゴン支局は沢田の滞在延期を東京支局に要請[5]、滞在が1ヶ月延長された。
- 1966年(昭和41年)1月29日 - 2人の米兵が塹壕から引きずり出したベトコン女性兵士を連行する写真『敵を連れて』を撮影[8]。
- 2月21日 - アメリカ軍のM113装甲兵員輸送車がベトコンの死体を引きずっている写真『泥まみれの死』を撮影[9]。
- 4月22日 - 『安全への逃避』が1966年度アメリカ海外記者クラブ賞第1位を受賞した[10]。
- 5月2日 - 前年撮影した『安全への逃避』を含む全28点の写真集について日本人としては2人目のピューリッツァー賞報道写真部門を受賞[11]。この後UPIとライバルだったAP通信は二倍の給料を提示し、またナショナルジオグラフィック協会からも引き抜きがあったが、沢田はどんなに好条件を出されても全く応じなかったため、「サムライ・フォトグラファー」と呼ばれるようになっていった[12]。
- 12月16日 - 1966年ハーグ世界報道写真展で『泥まみれの死』が第1位、『敵を連れて』が第2位を獲得した。UPIサイゴン支局では本人に連絡を取ろうとヘリコプターを出して捜索したが発見できず、ハーグでの授賞式には妻サタが出席した[13]。
- 1968年(昭和43年)2月1日 - テト攻勢の中、フエ王城攻防戦に参加[14]、2月4日に一度サイゴンに戻ったが2月5日から2月19日まで再びフエに入った。この時の写真は戦場カメラマンとしての沢田の仕事の頂点をなすもので、第26回USカメラ賞を受けた[15]。またこの時の手記は1968年2月20日付毎日新聞夕刊第一面に掲載された。
- 1970年(昭和45年)1月15日 - 再びサイゴン支局に戻った[18]。
- 1971年(昭和46年) - 前年5月26日に撮影したカンボジア難民の写真でロバート・キャパ賞を受賞[21]した。
- 1982年(昭和57年)2月26日 - NHK特集『カメラマン サワダの戦争』が放送された。
- 1996年(平成8年) - ドキュメンタリー映画『SAWADA 青森からベトナムへ ピュリツァー賞カメラマン沢田教一の生と死』(監督:五十嵐匠)が製作された。
ライカを愛用
日本光学工業(現ニコン)は「1971年度(原文ママ)のピューリッツァー賞も、ニコンによる作品に授与された。ベトナム戦線において取材にあたったUPI通信の沢田カメラマンの『安全への逃避』という力作である。」[22]と主張していたが、実際には日本製カメラをどんなに勧められても「日本のカメラは写りが悪い」「日本のカメラを使うと壊れちゃうんだよ」といって日本製のカメラを使いたがらなかったという[23]。妻のサタは、沢田本人が書いた『安全への逃避』の写真データとして「ライカM3、135ミリレンズ、トライX、1/250秒、F11」としている[24]。
沢田がニコンを1台提げている写真が残っているが、ジャングルで取材中に故障し写真が撮れなかったことがあった。この際彼はニコンを地面に叩きつけながら「こいつのおかげで、今のショットを撮り逃がしたんだ!」と憤慨し、以来ライカ信奉は確たるものになったという。1967年にはライカM3を3台、ライカM2を2台、ライカM4を1台とボディー6台を所有、レンズはスーパーアンギュロン21mmF3.4、エルマリート28mmF2.8、ズミルックス35mmF1.4、ズミクロン35mmF2、ズミクロン50mmF2、エルマー50mmF2.8、ズミクロン90mmF2、エルマリート135mmF2.8などを揃え[25]、これを黒塗りにした50×30cmほどのゼロハリバートンに入れて使用していた[26]。沢田は受賞した表彰式で取材陣から「どんなカメラを使っているのか」という質問に対し常に「ライカ」と答えていたため有名になり、エルンスト・ライツ社(現ライカ)からプロトタイプの実写テストを頼まれるまでになっていた[27]。
ハーグ世界報道写真展で1位を取って以後はニコンFを使用することもあったが、105mmや200mmといった望遠レンズのみであり、主力は引き続きライカを使用した[28]。
脚注
演じた俳優
- 大沢たかお - テレビドラマ『輝ける瞬間』(1999年12月15日放送、名古屋テレビ製作・テレビ朝日系列)
- 萩原聖人 - テレビ番組『永遠の恋物語』での再現ドラマ(2004年放送、朝日放送製作・テレビ朝日系列)
- 玉木宏 - 舞台『ホテル マジェスティック〜戦場カメラマン澤田教一 その人生と愛〜』(2013年3月、新国立劇場 中劇場他)
参考文献
- 沢田サタ 『泥まみれの死 沢田教一ベトナム写真集』講談社文庫
- 『サワダ 遺された30,000枚のネガから 青森・ベトナム・カンボジア』くれせんと ISBN4-90634-02-0
- 青木冨貴子『ライカでグッドバイ カメラマン沢田教一が撃たれた日』文春文庫
- 『ニコンの世界』初版 1976年10月30日発行 日本光学工業カメラ事業部
- 『ニコンの世界』第4版 1978年2月25日発行 日本光学工業カメラ事業部
- 『ニコンの世界』第6版 1978年12月20日発行 日本光学工業カメラ事業部
関連項目
外部リンク
- 製作会社による映画「SAWADA」のページ - 閉鎖。(2008年3月11日時点のアーカイブ)テンプレート:Asbox