池大雅
池 大雅(いけの たいが/いけ たいが、 享保8年5月4日(1723年6月6日) - 安永5年4月13日(1776年5月30日))は、日本の江戸時代の文人画家、書家。本来の苗字は池野(いけの)だが、中国風に池と名乗った。幼名は又次郎(またじろう)など。諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)。日常生活には池野 秋平(いけの しゅうへい)の通称を名乗った。雅号は数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などが知られている。
妻の玉蘭(ぎょくらん)も画家として知られる。弟子に木村兼葭堂などがいる。与謝蕪村とともに、日本の文人画(南画)の大成者とされる。
略伝
享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれる。父を早くに亡くし経済的に苦しい中、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始める。習い始めたばかりの頃、萬福寺で書を披露し、その出来栄えに僧たちから「神童」と絶賛された。
柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出され、文人画を伝えられた。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富む。大雅は中国渡来の画譜類のみならず、室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立した。
川端康成の蒐集品として著名な「十便十宜図」は、中国・清の李漁の「十便十宜詩」に基づき、山荘での隠遁生活の便宜(便利さ、よろしさ)を画題に大雅と蕪村が共作した画帖である(大雅は「十便図」を担当)。小品ながら、文人の理想とする俗塵を離れた生活を軽妙な筆遣いと上品で控えめな色彩で活写している。
大雅は董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に従ったためか、旅と登山を好んだ。ある日京都の庵で仲間と富士山の話をしていて盛り上がり、『ならば登ろうではないか』と、いきなり旅支度を始め、富士山に行き旅巡りをして一か月以上して帰って来た。人々はこれを雅談だと讃えた、というエピソードが残っている。こうした旅と登山の体験は、大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされる事になった。
代表作
- 前後赤壁図 (個人蔵) 紙本淡彩 六曲一双 重要文化財 1749年
- 陸奥奇勝図 (九州国立博物館) 紙本淡彩 巻子1巻 重要文化財 1749年
- 五百羅漢図他 (京都・萬福寺) 紙本墨画淡彩 掛軸28幅襖1面 重要文化財 1756年頃
- 柳下童子図 (京都府蔵、京都文化博物館管理) 紙本墨画淡彩 八曲一隻 重要文化財 1760年頃
- 倣王摩詰漁楽図 (京都国立博物館) 紙本墨画 掛幅 重要文化財 1762年頃
- 蘭亭曲水・龍山勝会図 (静岡県立美術館) 紙本著色 六曲一双 重要文化財 1763年
- 山水人物図・老松図 (高野山 ・遍照光院) 紙本墨画淡彩 襖絵8面・2面計10面 国宝 40代の作
- 楼閣山水図 (東京国立博物館) 紙本金地墨画着色 六曲一双 国宝 40代前半
- 白雲紅樹図 (相国寺承天閣美術館) 絹本著色 掛幅 重要文化財 40代半ば
- 十二月離合山水図 (出光美術館) 六曲一双 重要文化財 1769年 - 離合山水図とは一扇ずつにそれぞれ独立した山水画を並べたものが、全体を通して見ると一つの山水図になる趣向の絵。本作品では1月から12月までの季節の移り変わりを表現する。この屏風に添えられた大雅の画料の受領書には、金百疋と記されている。
- 十便十宜図のうち十便図 (川端康成記念会) 画帖 国宝 1771年
- 洞庭赤壁図巻 (ニューオータニ美術館) 絹本著色 巻子1巻 重要文化財 1771年
- 西湖春景・銭塘観潮図 (東京国立博物館) 紙本淡彩 六曲一双 重要文化財 40代の作
- 瀟湘勝概図[1] (個人蔵) 紙本淡彩 六曲一隻 重要文化財 40代の作
- 瀟湘八景図(東山清音帖) (個人蔵) 紙本墨画 1帖 扇面16面(絵8面・詩書8面) 題簽・題字高芙蓉 跋文細合半斎 重要文化財 最晩年の作