永田秀次郎
永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年7月23日 - 1943年9月17日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の官僚・政治家。第18代三重県知事、第8代・第14代東京市長、第4代拓殖大学総長、貴族院議員。第9代拓務大臣、第18代鉄道大臣を歴任。長男は元自由民主党衆議院議員の永田亮一。
経歴
兵庫県三原郡倭文村(現南あわじ市倭文長田)に永田実太郎の次男として出生。弟に京都市土木局長、横浜市電気局長を務めた永田兵三郎がいる。
姫路中学校、第三高等学校(現在の京都大学の母体校の1つ)を卒業。
内務省官僚を務めた後、第8・14代東京市長、拓殖大学第4代学長、貴族院議員を歴任。関東大震災では市長として復興に尽力[1][2][3]。
1932年のロサンゼルスオリンピックで女子平泳ぎ200mで銀メダルを獲得した前畑秀子に「なぜ金メダルを取れなかった」と言った。前畑は水泳を引退するつもりだったが、永田の言葉により現役続行を決意。4年後のベルリンオリンピックで金メダルを取ることになる。当時、永田は東京市長としてベルリンの次の1940年のオリンピックを東京に誘致しようと熱心だった。そのためには女子の金メダリストがいれば有利だと考えていたという。
1943年9月17日に逝去。テンプレート:没年齢2。辞世句に『震災忌我に古りゆく月日かな』[4][5]。
人物
俳人でもあり号は永田青嵐。また大変な釣り好きとしても知られる。また、日本サッカー協会(当時は大日本蹴球協会)創立時の賛助者として名を連ねている。
主な経歴
- 洲本中学校第3代校長(1902年11月 - 1904年9月、26歳で就任)
- 大分県視学官(1904年9月 - )
- 京都府警察部長
- 三重県知事
- 内務省警保局長(1916年 - )
- 東京市助役(1920年12月22日 - 1923年5月29日)
- 東京市長(1923年5月29日-1924年9月8日、1930年5月30日 - 1933年1月25日)
- 拓殖大学学長(1929年5月 - 1943年9月)
- 貴族院議員
- 拓務大臣(広田弘毅内閣、1936年3月9日 - 1937年2月2日)
- 鉄道大臣(阿部信行内閣、1939年11月29日 - 1940年1月14日)
関連項目
- 池田宏・前田多門 - 秀次郎とともに後藤新平東京市長の補佐役として「畳屋」と称された。畳屋の由来は旧字体の"疊"(ワ冠の上に3つの"田"の字が乗っかっている)をもじって、3人の補佐役がいずれも名前の中に"田"の字を含んでいることによる。
出典
外部リンク
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
永井柳太郎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 鉄道大臣
第18代:1939 - 1940
|style="width:30%"|次代:
松野鶴平
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
児玉秀雄
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 拓務大臣
第9代:1936 - 1937
|style="width:30%"|次代:
結城豊太郎
テンプレート:S-aca
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
後藤新平
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 拓殖大学総長(学長)
第4代:1919 - 1943
|style="width:30%"|次代:
宇垣一成
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- ↑ ぶらっと淡路島 2010-2011 秋冬、2010年9月15日、淡路島観光協会
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