永代橋
永代橋(えいたいばし)は、隅田川にかかる橋で、東京都道・千葉県道10号東京浦安線(永代通り)を通す。西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区佐賀一丁目及び同区永代一丁目。地下に東京メトロ東西線が通る。夕刻から22時まで青白くライトアップされる。
橋の概要
- 構造形式
- 工法 ニューマチックケーソン工法
- 橋長 184.7m
- 幅員 25.0m
- 着工 1923年(大正13年)12月
- 竣工 1926年(大正15年)12月20日
- 施工主体 東京市復興局
- 設計 田中豊原案、竹中喜忠設計(意匠面では建築家の山田守や山口文象(岡村蚊象)の関与があった)
- 橋桁製作 神戸川崎造船所
- 施工 太丸組/間組
歴史
永代橋が架橋されたのは、元禄11年(1698年)8月であり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりも100m程上流、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)のあった場所である。隅田川で四番目に作られた橋。
「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある。
架橋を行ったのは関東郡代の伊奈忠順。上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされる。長さ110間(約200m)、幅3間余(約6m)、また隅田川で最も下流で、江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あり、当時としては最大規模の大橋であった。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る。
元禄15年(1702年)12月の赤穂浪士の吉良上野介屋敷(所在地は現墨田区両国)への討ち入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという[1]。
幕府財政が窮地に立った享保4年(1719年)に、幕府は永代橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めたが、文化4年8月19日 (旧暦)(1807年9月20日)、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こす。
橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し、死者・行方不明者は実に1400人を超え、史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について大田南畝が、下記の狂歌や「夢の憂橋」を著している。
永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼
なお古典落語の「永代橋」という噺も、この落橋事故を元にしている。南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が、刀を振るって群集を制止させたという逸話も残っている。曲亭馬琴は「兎園小説」に「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ」と書いている。
事故後、橋の維持の重要性に気づいた幕府により再架橋されるが、維新を迎えるころには相当痛んでいたようで明治30年(1897年)、道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄製のトラス橋が現在の場所に架橋された。明治37年には東京市電による路面電車も敷設された(昭和47年11月に廃止)。しかし、橋底には木材を使用していたため、関東大震災の時には多数の避難民とともに炎上し、多くの焼死者、溺死者を出した。その後、大正15年に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された。
「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われたこの橋は、ドイツ ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100mを超えた橋でもある。
現在東京大学工学部1号館に架橋当時の永代橋のレプリカモデルが存在する。
2000年(平成12年)に清洲橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定された。
2007年(平成19年)6月18日、都道府県の道路橋として初めて、勝鬨橋・清洲橋と共に永代橋が国の重要文化財(建造物)に指定された。
隣の橋
文学
参考文献
- 林溪清[2]「けいしんめがね」〔赤穂浪士と泉鏡花 永代橋物語〕『大江戸かわら版』創刊号、2009年11月3日(火)、A&Aインタラクティブ株式会社 発行
脚注
関連項目
外部リンク
- 永代橋全架橋写真(土木学会付属土木図書館デジタルアーカイブスより)
- ちくま味噌(永代橋横にて300年の歴史を持つ老舗による現在の永代橋架橋時の写真)
- 『新永代橋の型式選定に就て』 土木建築工事画報、第3巻第3号、1927年
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