毛利高久

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毛利 高久(もうり たかひさ、寛文7年(1667年) - 正徳6年4月16日1716年6月5日))は、豊後佐伯藩の第5代藩主。

豊後森藩主・久留島通清の三男。正室は南部行信の五女・幕子。官位は従五位下、駿河守。通称は靭負。

天和2年(1682年)6月22日、養父毛利高重の死去により、末期養子として家督を継ぐ。同年7月11日、将軍徳川綱吉御目見する。天和3年(1683年)12月4日、従五位下駿河守に叙任する。

貞享元年(1684年)12月9日、幕府から南部行信の五女・幕子との結婚を許可される。しかし、高久の性格はきつく、病気がちで生活も乱れており、夫婦関係は悪化していく。貞享4年(1687年)、幕子は南部家の江戸藩邸へ逃げ込み、離婚にいたる。後に幕子は小出重興と再婚する。

元禄元年(1688年)7月27日、実弟・高定(のち高慶と改名)を養子に迎えた。藩政では、田畑の収穫を向上させるために元禄4年(1691年)、小田井路を開かせた。元禄12年(1699年)5月13日、隠居して高慶に家督を譲った。正徳6年(1716年)4月16日、佐伯において死去した。50歳。

テンプレート:佐伯藩主