毛利高丘
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毛利 高丘(もうり たかおか、1728年(享保13年)- 1760年7月28日(宝暦10年6月16日))は、豊後国佐伯藩の第7代藩主。
佐伯藩嫡子で廃嫡された毛利高通(第6代藩主・高慶の長男)の長男。母は藤田氏。正室は鳥居忠瞭の娘。側室は佐原氏ほか。子に毛利高標(次男)、花房正応(三男)、秋田季済(四男)、滝川一貞(五男)、娘(戸田忠如婚約のち本庄道利正室)。官位は従五位下、周防守。幼名は寅太郎。
祖父・高慶の嫡男であった父・高通は生来から病弱であったため、高慶によって廃嫡されていた。高通は享保18年(1733年)7月に父に先立って死去し、代わって嫡子となっていた叔父の高能も元文5年(1740年)に早世してしまったため、孫の高丘が寛保2年(1742年)8月7日、祖父・高慶の隠居により家督を継ぐこととなった。
高丘の治世は、名君と呼ばれた祖父・高慶時代の末期から始まっていた社会不安などから領民の他国への逃散が相次ぐなど、その治世は多難を極めた。このような中で宝暦10年(1760年)6月16日、33歳で死去した。跡を次男・高標が継いだ。法号は蘭陵院香全性大居士。