横浜町
テンプレート:Infobox 横浜町(よこはままち)は、青森県下北半島の中間部陸奥湾に面した町である。
目次
地理
下北半島の中間部に位置し、西を陸奥湾に東を吹越烏帽子、金津山等の山岳地帯に囲まれる。
隣接する自治体
歴史
町内から縄文土器をはじめとする遺物が発掘されていることから、先史の頃よりこの地に人が住んでいたことが分かる。
現在の三八上北地方は、古くは糠部郡(ぬかのぶ)と呼ばれる地域の一部であった。文治五年(1189)、南部三郎光行、糠部五郡に封ぜられる[1]。ただし、この頃、糠部宇曽利は安藤氏に支配されていたようだ。
康生二年(1456)、蠣崎蔵人の乱に巻き込まれる。『東北太平記』にある下北図には城砦として「横平城、横浜カゲユ」の名がみえる[2]。
弘治元年(1555)、南部氏の庶家である七戸右近朝慶の子慶則、横浜館主となり、横浜氏を名乗る。系図によると「横浜左衛門尉、慶則、横浜某養子」と記事がある[3]。
文禄二年(1593)、文禄の役。名護屋陣中の南部信直の書状に「野辺地よこ浜にてえぞ船あまた作り候……」とあり、横浜で造船が行われていたことがうかがえる[4]。
江戸時代より天然桧、また煎りナマコを中心とした海産物の上方貿易により繁栄を迎える。越前三国の吉左衛門という商人が横浜に寄り住み、「色濃」という紺色木綿をヒノキ材と交換していた[5]。 幕末の盛岡藩士、漆戸茂樹の『北奥路程記』は横浜に言及し、曰く「横浜九ヶ村という。総戸数八十九軒、出入り口に柵有り。桧柾目の胴木、幅七寸長さ四尺のもの四枚を大阪木綿一反と交換」とある。地元のものはこの規定サイズのヒノキ板を「寸法」と呼び、大阪木綿を「寸模(すんぽ)」と呼んでいる。昭和末期でも地元の人は木綿布を買い求める時に寸模と呼んでいたという[4]。
横浜は北郡四宿場(伝法寺駅、藤島駅、有戸駅、横浜駅)の一つであり、宿屋、給水所、高札場が設けられていた。
寛永十一年(1634)糠部郡分割。寛文四年(1664)、南部藩断絶し盛岡藩と八戸藩に分割。天和二年(1682)、南部領内の管轄改正。横浜八ヶ村は北郡野辺地通り横浜村○○村となる(八ヶ村は、吹越、牛ノ沢、横浜、桧木(ヒノキ)、大豆田(マメダ)、鶏沢(ニワトリザワ)、有畑、百目木(ドウメキ)である)。
17世紀末ごろに書かれた古文書が横浜に伝わっており『横浜家文書』と呼ばれている。これによると、かつて泊川左近、またの名を横浜左近なる者が泊川に舘を持っていた[6]。蠣崎氏と婚姻関係を結んでいたという[7]。この横浜左近が、南部七戸系の横浜氏であったのか、それとも慶則が横浜に入る前の地元の土豪の系統であったのかは分からないが、横浜は互いに対立している蠣崎氏と南部氏に挟まれ微妙な立地であったことがうかがえる。 また、『横浜家文書』は横浜が衰退した様子について述べている。この頃、横浜八ヶ村のヒノキは伐り尽くして幼木ばかりとなった。ついに宝暦十三年(1763)、伐採は藩の役人に厳しく規制されることとなった。こうしてヒノキの出材量は激減し、他国の商人は材木取引から手を引くことになる[8]。
明治二年、戊辰戦争に伴う盛岡藩の減封→県設置布告→会津藩転封を経て、北郡は斗南藩領の一部となる。明治四年、廃藩置県の詔書により横浜村は斗南県に入る。同年、斗南県が弘前県に吸収され、さらに青森県に改称。
明治二十四年、東北本線が開業するに至り、蝦夷へ渡る旅客は東北本線で青森へ出られるようになり、野辺地を含む田名部街道沿いの町の重要性はぐっと低下した[9]。
明治に入り、北海道開拓の機運が高まるにつれ、尻屋崎が海の難所であることが問題になってきた。明治政府では下北半島を横断する運河を開鑿する計画が持ち上がり、3ルートについて調査が行われた。そのうちの真ん中のルートが横浜-六ヶ所村泊間を運河でつなぐというものであった。3ルートとも計画のみで終わっている[10]。
明治二十六年、幸田露伴、恐山参詣の折横浜を通り、『枕頭山水』に紀行を記す。
- 1878年(明治11年):郡制施行により上北郡に属する。
- 1889年(明治22年)4月1日:町村制施行により、近世以来の横浜村が単独で自治体として発足。
- 1956年(昭和31年)4月1日:町制施行により横浜町となる。
男は北海道方面の漁撈に出稼ぎし、農業は女まかせの半農半漁の生活であったため、昭和に入っても自家用作物を確保するのが精いっぱいで農業の技術進歩がみられなかった。昭和の大凶作ののち、昭和七年、ついに農業経済更生指定村に指定されるに至り、村長自ら指揮を執り農業の効率改善に努めた。このときにナタネを導入したのが今の菜の花栽培の始まりである[11]。
隣村の六ヶ所村とともに野辺地町とのつながりが強いが、平成の大合併でむつ市を中心としたむつ下北地域合併協議会に参加。合併後の新議会定数を巡る対立等にて大間町脱退に伴い協議会廃止される。
伝説
八幡神社には八幡太郎義家の伝説がある。1053年(天喜年間)、安倍貞任らの夷征伐の帰り、源氏の軍団が乗った船が大嵐に遭った。そこで源義家が弓で波を射つつ祈ると、時化がおさまった。無事たどり着いた海岸を、伝説にちなんで「源氏ヶ浦」と呼んでいる。また義家が射た波は、後に軽石となって八幡神社の裏手に上がったと言われ、その軽石を賜った八幡神社は、軽石八幡神社とも称されている。また国の重要無形民俗文化財に指定されている「能舞」が伝わっており、18面の能面が同神社に保存されている。また県無形民俗文化財指定の「獅子舞」「神楽」などが、八幡神社例大祭で披露される。
行政
警察署
- 野辺地警察署横浜駐在所
消防署
- 北部上北広域事務組合横浜消防署
産業
農業
漁業
- 横浜漁港
- 鶏沢漁港
- 百目木漁港
- 源氏ヶ浦漁港
特産品
その他
生産競走馬
- オンスロート 1962 有馬記念、天皇賞(春)、JRA 年度代表馬 41戦26勝 青森牧場生産
- カネケヤキ 1964 桜花賞、優駿牝馬(オークス) 16戦6勝 青森牧場生産
- カネヒムロ 1971 優駿牝馬(オークス) 23戦4勝 青森牧場生産
- カネミノブ 1978 有馬記念、78 JRA 年度代表馬 37戦8勝 青森牧場生産
- ドルフィンボーイ 1994 東京王冠賞、東京大賞典(大井GI) 12戦7勝 青森牧場生産
地域
人口
中学校
- 横浜町立横浜中学校
小学校
- 横浜町立横浜小学校
- 横浜町立大豆田小学校
- 横浜町立有畑小学校
- 横浜町立南部小学校
郵便
- 横浜郵便局(集配局) (84025)
- 吹越簡易郵便局 (84739)
- 有畑簡易郵便局 (84752)
金融機関
- みちのく銀行横浜支店
- 十和田おいらせ農業協同組合横浜町支店(旧:JA横浜町)
- ゆうちょ銀行(代理店)横浜郵便局
施設
- ふれあいセンター。町民図書館および入浴施設「横浜温泉」併設
- 自然体験ランド 「自然苑(じねんえん)」
- 横浜町トレーニングセンター
郷土料理
交通
バス
鉄道
道路
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
- 菜の花畑:作付け面積全国第2位(2010年(平成22年)現在。第1位は北海道滝川市)、菜の花を町のシンボルとして町おこしの中心に据える。平成元年には全国1位を記録。
- 風力発電所:豊田通商系列のウィンドテック横浜により大豆田(まめだ)地区に設立。風力発電機6機、総発電量10500kW。
- 道の駅よこはま:特産品販売所、レストラン「鮮菜」などの施設も備える。愛称は“菜の花プラザ”。
- 砂浜海岸海水浴場:夏は大勢の海水浴客で賑わう。予約で宿泊できるコテージもある。
- なたね島:砂浜海岸海水浴場から南に位置する出島。釣り人も多い。
- 砂浜海岸フェスティバル: 8月に横浜町砂浜海岸海水浴場にて行われる。人間ばんば大会、子供宝探し、水中ロデオなどのイベントも開催。
- 三保野公園:テニスコート、ミニサッカー場など
- よこはま夏まつり花火大会:毎年8月14日に開催される。昼は三保野公園にて魚のつかみ捕り、いも煮会などのイベント、夜には約2000発の花火が横浜漁港にて打ち上げられる。
- 牛の沢遺跡
- 横浜町神楽:県指定無形民俗文化財[13]
- 北限のゲンジボタル:横浜町はゲンジボタルの生息地の北限とされ、「横浜町のゲンジボタルおよびその生息地」として青森県の天然記念物に指定されている。吹越町ほたる村では毎年7月第1または第2土曜日にホタル&湧き水まつりを開催している。
- 吹越烏帽子
出身著名人
- 木野花:女優および演出家。
- 秋田ひろむ:ロックバンドamazarashiボーカル。
脚注
外部リンク
- ↑ 『聞老遺事』
- ↑ 『東北太平記』
- ↑ 横浜町史編纂委員会編『横浜町郷土史年表』(昭和57年)。同書は岩手県史を引用している。
- ↑ 4.0 4.1 横浜町の歴史と地誌を語る会『よこ浜』(平成2年)
- ↑ 『新撰陸奥国誌』
- ↑ 『横浜町郷土史』
- ↑ 『横浜町郷土史年表』。年表は野辺地飯田家に伝わる文書によるとしている
- ↑ 横浜町誌編纂委員会『開村百周年町制施工二十周年記念誌 ふるさと物語』(昭和五十三年)、p.33-35
- ↑ 『横浜町郷土史』
- ↑ 『六ヶ所村史 上巻』
- ↑ 『ふるさと物語』p.236, p140
- ↑ JA十和田おいらせ横浜町支店(横浜町毛まめのブランド化を目指した取組)
- ↑ 青森県教育委員会『青森県民俗芸能緊急調査報告書』平成八年