横手城
横手城(よこてじょう)は、秋田県横手市にあった城である。構造は山城。朝倉城、阿櫻城とも呼ばれる。現在、城跡は横手公園として整備されており、模擬天守が建てられている。
歴史・沿革
横手城の築城時期は、諸説ある。戦国時代には、小野寺配下の横手氏・大和田氏・金沢氏が横手城を拠点にして反抗したが、これは鎮圧されている。その後、小野寺氏は横手に本拠を移した。
横手城は土砂崩れの防止と斜面に敵兵が滑ってよじ登れないようにするために韮(ニラ)を植えたため、韮城とも呼ばれた。
関ヶ原の戦いの時、当時の城主であった小野寺義道は、上杉景勝に通じたことより徳川家康に西軍方とみなされたため慶長6年(1601年)に改易され、一時的に最上氏の手に渡る。慶長7年(1602年)、久保田城に佐竹義宣が転封されてくると横手城も佐竹氏の所有となり、城代が入れられた。城代には伊達盛重、伊達宣宗続いて須田盛秀が入り、寛文12年(1672年)に佐竹氏一門の戸村義連(戸村義国の嫡孫)が入城して以降、代々「十太夫」を称す戸村氏の宗家(戸村十太夫家)が明治まで務めた。 元和6年(1620年)、一国一城令により久保田藩領でも支城が破却されたが、横手城を重要な拠点と考えた佐竹義宣が幕府に働きかけたため、破却を免れた。
元和8年(1622年)、当時江戸幕府年寄で下野宇都宮藩主の本多正純が宇都宮城釣天井事件でこの地に流罪され、寛永14年3月10日(1637年4月5日)に亡くなるまで過ごした。
江戸時代末期、戊辰戦争の際には、東北地方では佐竹氏は孤軍官軍側につく。陸奥仙台藩と出羽庄内藩の軍勢が、戸村大学(義効)の籠城する横手城を攻撃し明治元年8月11日(1868年9月26日)の夕方に落城した。
明治4年(1871年)に廃城。明治12年(1879年)に戊辰戦争で戦死した22人の霊を慰めるため焼け残った城の資材を再利用して本丸跡に秋田神社が建立された。
本来の横手城に天守はなかったが、太平洋戦争後の昭和40年(1965年)に、郷土資料館と展望台を兼ねて二の丸跡に模擬天守が建設された。この天守は、東北地方における模擬天守の初見である[1]。
ライブカメラ
展望台に、旧・横手市の市街地を望む方向にライブカメラが設置されている。先着順でカメラのズームアップ・ズームダウン、方向の微調整をすることができる。[2]