樊建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

樊 建(はん けん、生没年不詳)は、中国三国時代から西晋の政治家。蜀漢と西晋に仕えた。長元荊州義陽郡義陽県の人(「諸葛亮伝」が引く『晋百官表』)。『三国志』蜀志に独立した伝はないが、「諸葛亮伝」に記録がある。

諸葛亮の死後、董厥の後任として尚書令となった。251年には校尉の地位であったが、このときへの使者として赴いた。孫権は重病で樊建と直接対面することができなかったため、諸葛恪に対し樊建の人物を、かつて使者として呉を訪れた宗預と比較する形で尋ねた。諸葛恪は「宗預に才能・見識では及ばないが、性質では優っている」と評した。

後に侍中・尚書令となった。261年諸葛瞻と董厥が平尚書事になると、樊建と三名で国政を預かることとなった。黄皓が政治の実権を握るようになっていたが、樊建達はお互いに庇い合うのみで、政治の歪みを正すことはできなかった。ただし、樊建だけは黄皓と私的に親しくすることはなかったという。

263年が蜀に侵攻し、劉禅は降伏した。翌年春、劉禅が一家揃って洛陽へ移送されることになると、樊建は董厥と共に従った。洛陽に到着すると、旧蜀の群臣達とともに列侯に封じられた(「後主伝」)。

その後、董厥と共に相国参軍となり、秋には董厥と共に散騎常侍を兼任した上で、蜀の民心鎮撫に努めたという。

西晋の給事中であったとき、司馬炎(武帝)に諸葛亮の治世について質問されると、これを賞賛して述べた。司馬炎もこれを受けて諸葛亮を賞賛すると、先に成都において無実の罪で誅殺されていた鄧艾の赦免を、平伏して嘆願した。司馬炎は笑ってこれを容認したという(「諸葛亮伝」が引く『漢晋春秋』)。

小説『三国志演義』では、諸葛亮に従い文官として北伐に参加している。テンプレート:Asboxテンプレート:Chinese-history-stub