東京都立松沢病院
東京都立松沢病院(とうきょうとりつまつざわびょういん)とは、東京都世田谷区にある病院である。東京都が設置・運営する都立病院のひとつであり、精神科の専門病院となっている。
目次
概要
精神科の専門病院として知られる。それまで東京・巣鴨にあった精神病院、東京府巣鴨病院が1919年(大正8年)に現在地に移り、「東京府松澤病院」として診療を始めたのが始まりである。松沢病院は敷地面積が61,000坪で、分棟式の建物が並び、当時から開放病棟や作業場が建てられているなど、先進的な精神病院として開院した[1]。
現在は東京都の精神科応急入院指定病院となっており、措置入院用の施設も備えてある。また、東京都災害拠点病院に指定されている。診療の対象は原則として成年者であり、未成年者の場合には東京都立小児総合医療センターを紹介する。やむを得ない場合は、未成年の入院を認めることもある。
2012年(平成24年)5月、新たに建設された病院本館診療棟が開業した[2]。これに伴い、身体疾患を合併した精神病患者を管理する「精神科身体合併症医療」や「薬物依存症・アルコール依存症医療」のための病床が増設されたほか、15-25歳の患者を対象とした「青年期病棟」が新設された[2]。
歴史
沿革
松沢病院の前身は、明治5年(1872年)に東京府本郷に設置された養育院に始まる。その目的は、明治政府樹立後の内戦や廃藩置県による混乱によって生まれた浮浪者や行き場のない病人を収容することにあった[3]。
1879年(明治12年)7月に養育院が東京府神田に移転した際に収容者を調査したところ、120人中68人が精神疾患者であることが判明し、彼らの収容目的として、同年7月に東京府上野の上野恩賜公園に建てられた東京府癲狂院(とうきょうふてんきょういん、当時の精神科病院はこの様に呼ばれていた)を設立する。初代院長は東京府病院長長谷川泰[4]である[3]。
その後1881年(明治14年)8月に本郷区向ヶ丘、1886年(明治19年)6月に小石川区巣鴨駕籠町に移転。第3代院長には、東京帝国大学医科大学精神病学教室初代教授に就任した榊俶(さかき はじめ)が兼任する[5]。
1889年(明治22年)に東京府巣鴨病院と改称。
1901年(明治34年)に東京帝国大学精神病理学講座主任教授呉秀三が巣鴨病院院長を兼任し、病院改革を始める。大きな改革は次のとおり[6]。 テンプレート:Indent
1916年(大正5年)、東京帝国大学精神病理学講座が巣鴨病院から分離[7]。
1919年(大正8年)11月7日に荏原郡松沢村に移転し、東京府松沢病院になった。敷地面積は6万坪。各病棟は□型をしており、閉鎖病棟の患者も中庭には出られる構造になっている[7]。
1943年(昭和18年)7月の都制開始とともに現在の名称になる。
1949年(昭和24年)、公務員法による国家公務員と地方公務員の兼職禁止により、院長内村祐之(東京大学教授)が退任する。
2009年(平成21年)からは、根拠に基づいた医療が難しいと言われる精神科・精神科医に於いて、うつ状態の先進医療として、光トポグラフィー検査を用いたうつ病・統合失調症に対する「補助的診断」として、実施している[8]。
このような歴史的経緯から、松沢病院は設立当初から日本の精神科医療の中心となり、大きな役割を果してきたことがわかる。
年表
- 1872年(明治5年) - 東京府本郷に「養育院」を設置[3]。
- 1879年(明治12年)7月 - 東京府上野の上野公園に東京府癲狂院を設立。養育院の収容者のうち精神疾患者を収容[3]。
- 1881年(明治14年)8月 - 東京府本郷区向ヶ丘に移転。
- 1886年(明治19年)6月 - 東京府小石川区巣鴨駕籠町に移転。
- 1889年(明治22年) - 「東京府巣鴨病院」と改称。
- 1901年(明治34年) - 東京帝国大学教授呉秀三が巣鴨病院院長を兼任[9]。
- 1916年(大正5年) - 東京帝国大学精神病理学講座が巣鴨病院から分離[7]。
- 1919年(大正8年)11月7日 - 東京府荏原郡松沢村に移転、「東京府松沢病院」となる。
- 1943年(昭和18年)7月 - 東京都発足とともに現在の名称に改称。
- 1945年(昭和20年) 5月 - 青山脳病院本院(世田谷区松原)の譲渡を受け、「東京都立松沢病院 梅ヶ丘分院」として開業
- 2009年(平成21年) - 先進医療として光トポグラフィー検査を始める[8]
保険指定施設
診療科等
認定専門医人数
- 社団法人日本整形外科学会:整形外科専門医 2人
- 社団法人日本放射線学会:放射線科専門医 1人
- 社団法人日本外科学会:外科専門医 2人
- 社団法人日本循環器学会:循環器専門医 2人
- 財団法人日本消化器病学会:消化器病専門医 1人
- 社団法人日本腎臓学会:腎臓専門医 1人
- 一般社団法人日本消化器外科学会:消化器外科専門医 1人
- 社団法人日本透析医学会:透析専門医 1人
- 社団法人日本脳神経外科学会:脳神経外科専門医 2人
- 社団法人日本リハビリテーション医学会:リハビリテーション科専門医 1人
- 社団法人日本消化器内視鏡学会:消化器内視鏡専門医 2人
- 有限責任中間法人日本神経学会:神経内科専門医 3人
逸話
精神科病院での死亡率
立津政順は1958年(昭和33年)に「戦争中の松沢病院入院患者死亡率」(精神神経科学雑誌、60:596-605,1958)を発表し、特に敗戦の年1945年(昭和20年)には東京都立松沢病院に在籍した1,169名(年初在院668名、年間入院501名)中、478名が死亡し、年間在籍患者数にたいする死亡率が40.9%にのぼっていると発表した。
岡田靖雄はその他の病院の死亡率をも検討し、「戦前の精神科病院における死亡率」近代庶民生活史、20,病気・衛生226-240,三一書房,1995. において、死亡率に影響を与える要因として次のことを挙げている。
- 病院経営が安定すると死亡率が減少する。
- 太平洋戦争前は米価が上がると脚気による死亡率が上がると述べている。
それは赤痢、腸チフス、流行性感冒より影響が大であった。
第3に患者の入院費用種目であるが、しかし終戦直後の食料不足による栄養障害が最も重要で,松沢病院では62.3%が栄養障害による,そして1000キロカロリー以下のことも多かったのではないかとしている。
佐川一政
松沢病院の患者として最も有名なのは、パリ人肉事件の加害者である佐川一政であろう。フランスの精神病院にて精神病と診断され、不起訴処分となって帰国した佐川を患者として受け入れたのが松沢病院である。しかし病院側は、フランスでの診断は誤診であり、佐川は精神病患者でなく人格障害者であり、刑事責任を問うべきと診断した。しかしフランス警察が捜査資料の引き渡しを拒否したため、日本においての起訴はならず、佐川は厄介払いされるように15箇月後に退院したテンプレート:要出典。
大川周明
大川周明は、A級戦犯として東京裁判の被告人とされたものの、精神障害との診断を受け、裁判から外された。まず東大病院に入院し、後に松沢病院へ転院した。この時の主治医は西丸四方[10]。 テンプレート:Main
交通アクセス
脚注
- ↑ 八木剛平・田辺英 『日本精神病治療史』 金原出版 平成14年刊
- ↑ 2.0 2.1 都立松沢病院の新しい本館診療棟が5月28日オープン! 『広報東京都』 第800号 平成24年5月1日発行
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 『爆弾精神科医』(p136) より。
- ↑ 日本医科大学の前身済生学舎創設者 --『爆弾精神科医』(p136) より。
- ↑ 『爆弾精神科医』(p137) より。
- ↑ 『爆弾精神科医』(p138, p139) より。
- ↑ 7.0 7.1 7.2 『爆弾精神科医』(p140) より。
- ↑ 8.0 8.1 テンプレート:Cite press release
- ↑ 『爆弾精神科医』(p138) より。
- ↑ 『精神医学彷徨記』(p95) より。