村井茂兵衛
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村井 茂兵衛(むらい もへえ、文政4年5月11日(1821年6月10日) - 明治6年(1873年)5月)は、旧盛岡藩の豪商である。屋号は鍵屋。鍵屋茂兵衛とも。
尾去沢銅山事件で財産を没収された。
明治新政府は旧諸藩の外国からの借財を漸次肩代わりして処理していたが、盛岡藩の債務は諸藩の中でも多額であった。盛岡藩と茂兵衛との貸借を調査した役人の判断が違っていた為、茂兵衛は明治4年7月13日(1871年8月28日)に銅山の採掘権などの私有財産の差押さえを受け異議を申し立てたがまだ諸制度が完備しておらず、まして一度処理した役所の裁断は覆されず井上馨の知人・岡田平蔵に払い下げられた。この件について茂兵衛は諦めずに訴え続け、井上馨に反発する当時の法務大臣・江藤新平の意を汲む者等に利用され、世間に疑獄であると印象付けた。茂兵衛は盛岡藩の借財を背負い、かつ役人の無謬性の犠牲者となった。