李玖
テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 李 玖(り く/イ・グ/이 구、1931年12月29日 - 2005年7月16日)は李王垠の第二子。父は大韓帝国の元皇太子で李王、母は日本の皇族である方子女王。王公族としての身位は王世子、敬称は殿下。なお、今上天皇は共に久邇宮朝彦親王を曾祖父とする又従弟に当たる。
生涯
1931年(昭和6年)12月29日午前8時22分、李王垠とその妃方子女王の第二子として誕生。兄晋は夭折していたため、玖が王世子(李家当主(=李王)の嗣子に与えられる位)となった。翌年1月4日、命名式が行われ「玖」と名付けられた。
第二次世界大戦後、日本国憲法施行に伴い王公族の地位を喪失する。
伏見宮博明王(皇籍離脱後は伏見博明)とは幼少時から親しく、ともに戦後は米国への留学を熱望するようになった[1]。学習院高等科卒業後、アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学して建築学を学び、1958年(昭和33年)10月、ヨーロッパ系アメリカ人女性のジュリア・マロックと結婚してアメリカに帰化した。
1963年(昭和38年)、両親の韓国帰国に際して同行。両親・夫人とともに昌徳宮楽善斎に居住し、同国の実業家になったが、経営していた新韓航空が1979年(昭和54年)に倒産。以後は日本(主に東京)で生活を送る。子が無いことから、韓国の李氏宗親会等の勧めで1982年(昭和57年)にはジュリア夫人とも離婚した。なお、1969年(昭和44年)に養女ユジニア(Eugenia Unsuk、1959年 - )を迎えている。
1996年(平成8年)、全州李氏大同宗約院の総裁に就任したことで、韓国へ永住帰国。しかし事業への失敗等から再び日本へ戻り同族会からの援助で生活を送るが、やがて送金が停止される。
2005年(平成17年)に知人の援助を得て、かつての李王家邸であった赤坂プリンスホテルに宿泊するが、滞在約1ヶ月が経過した2005年(平成17年)7月16日、心臓麻痺のため同ホテルで死去。前述の通り、子が無かった為、李王垠とその妃方子女王の直系子孫は断絶した。
葬儀は7月24日、ソウルで行われた。葬儀には李海瓚国務総理、兪弘濬文化財庁長官、国会議員など多くの韓国政府要人や、日本からも玖の従兄弟にあたる人物などが出席した。追号は全州李氏大同宗約院によって「懷隱(ホェウン)」と決まった。
李玖の伯父・義親王李堈の孫にあたる李源が彼の養子に指名され[2]、李家を継ぐことが全州李氏大同宗約院にも承認されていたが、女帝を主張する李海瑗との間で係争となっている。李源はヒュンダイホームショッピングの児童スポーツ部長である。
略歴
- 1931年 - 東京の李王邸で王世子として出生
- 1947年 - 日本国憲法施行により身位喪失。
- 1950年 - 学習院高等科卒業
- 1956年 - マサチューセッツ工科大学卒業
- 1958年 - ヨーロッパ系アメリカ人ジュリア・マロックと結婚
- 1963年 - 大韓民国へ帰国して一家と昌徳宮に起居
- 1965年 - ソウル大学校と延世大学校で建築設計学講義
- 1966年 - トランスアシアの副社長に就任
- 1970年 - 父:李垠死去
- 1971年 - 英親王記念社業会設立
- 1973年 - 新韓航業株式会社設立
- 1982年 - 妻・ジュリアと離婚
- 1989年 - 母:李方子死去
- 1996年 - 全州李氏大同宗約院名誉総裁に就任
- 2005年 - 東京赤坂プリンスホテル(現・グランドプリンスホテル赤坂)で死去
系図
李玖の親類・近親・祖先の詳細 テンプレート:璿源譜略/荘祖 テンプレート:李氏朝鮮後期系図
脚注
- ↑ 1950年5月24日 読売新聞「元プリンス渡米 仲よしの伏見、李両君が留学」
- ↑ 2005年7月24日 中央日報「昌徳宮で李王家末裔・李玖氏の告別式」
関連項目
外部リンク
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