曹宇

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曹 宇(そう う、196年以降 -275年(咸寧元?)は、三国時代の人物。皇族彭祖。『三国志』魏書「武文世王公伝」に記録がある。父は曹操。生母は環夫人。同母兄弟に曹沖曹據曹丕(文帝)の異母弟。曹奐(元帝)の父。妻は張魯の娘(張魯伝)。


後漢において、211年に都郷侯に封じられたのを皮切りに、217年には魯陽侯となった。魏帝国成立後は下邳王(222年)に昇格したが、224年、文帝は諸王をすべて県王に下す詔勅を発布し、これにより単父県王とされた(詔勅の内容については曹據伝を参照)。曹叡(明帝)の時代、232年にこの命令が修正され、王に封じられている。

甥である明帝とは、年齢も近いこともあって、明帝の皇太子時代から親友の仲であり、明帝の時代には皇族の中でも特に恩寵を受けていた。235年には入朝した。237年へ帰還したが、238年に再び中央へ召しだされた。

239年に明帝が病に倒れると、曹宇は見舞いのために連日訪れた(明帝紀注が引く『漢晋春秋』)。明帝は曹宇を大将軍にして、曹肇曹爽夏侯献秦朗ら魏の宗室・閣僚らと共に、猶子曹芳(斉王)を補佐させようとした(明帝紀)。曹宇は謙虚な性格であったため、これを固辞した。これを知った劉放孫資は、曹宇が大任を果たせないことを自覚していると指摘し、曹宇に替えて曹爽・司馬懿を後見とするよう勧めた(劉放伝)。曹肇らと劉放・孫資らのどちらにするかで、明帝の意志は二転三転したが、結局曹宇達は免職となり、中央から遠ざけられてしまった(明帝紀・劉放伝)[1]。政治的な権限からは遠ざけられたが、以後も何度か加増を受けた。

曹奐(元帝)が即位した後、上表して冬至を祝したが、その際に「臣」と称したため、曹奐は直ちに詔勅を下し先例を調査した上で、実父である燕王(曹宇)のために、特別待遇を許す措置を採った(「三少帝紀」)。

後に司馬昭蜀征伐を成し遂げ王となると、曹奐は司馬昭を燕王(曹宇)より上の官位に任じ優遇したとある(『晋書』文帝紀)。

脚注

  1. 明帝紀注が引く『漢晋春秋』では、曹宇は明帝の側に常に付き添っていたが、曹宇が一時明帝の側から退いて曹肇と相談している隙に、重臣の劉放と孫資は密かに明帝に目通りし、文帝の遺命に藩王が政治に関与することは許さないというものがあると進言し、曹爽を後見とするよう熱心に勧めたとある。これは劉放・孫資が曹肇達と政治的に敵対しており、自身の権限が損なわれるのを憂いた側面もあったからだといわれている。
先代:
司馬懿
の大都督
第3代:235年 - 236年
次代:
曹爽

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