更級日記
『更級日記』(さらしなにっき / さらしなのにき)は、平安時代中ごろに書かれた回想録。作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女菅原孝標女。母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母である。作者13歳の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間が綴られている。全1巻。平安女流日記文学の代表作の一に数えられる。江戸時代には広く流通して読まれた。
内容
東国・上総の国府に任官していた父・菅原孝標の任期が終了したので寛仁4年9月京の都(現在の京都市)へ帰国(上京)するところから起筆し、源氏物語を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれている。製作形態としてはまとめて書いたのだろうと言われている。
源氏物語について最も早い時期から言及していたとされ貴重な資料となっている。光源氏物語本事に伝えられる、定家本にはない逸文からは譜と呼ばれる、おそらく注釈書のようなものの存在も知られる。
書名
書名の「更級」(更科)は、作中の「月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ」の歌が、『古今和歌集』の一首「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て(雑歌上、よみ人しらず)」を本歌取りしていることに由来すると言われている。作中に「更級」の文言は無い。
御物本の外題に「更級日記」とあるが、それ以前に題があったかどうかは不明である。
写本と錯簡
東山御文庫に伝えられてきた 藤原定家による写本、通称「御物本」が現存する。他の現存する写本は全て御物本の系統である。すなわち異本の類は一切なく、その点において例外的な古典である。一方で以下に書くように、定家以前にも一部(もしくは全体)が写された事があり、断片的には定家本以外のテキストも知られる。
いつしか御物本は順序を誤って綴じられていて(錯簡)、他の写本は全て、この錯簡を含む御物本に由来していたため正しい順番で読むことは困難だったが、大正13年(1924年)の御物本の発見に続き、佐佐木信綱・玉井幸助によって錯簡が発見、整理・訂正され、それ以降は正しく読めるようになった。
構成
(1)上洛の旅
(2)家居の記
(3)宮仕えの記
(4)物詣での記
(5)晩年の記
- 門出
- 竹芝寺
- 足柄山
- 富士の川
- 梅の立ち枝
- 物語
- 大納言の姫君
- 野邊の笹原
- 東より来たり
- 子忍の森
- 鏡の影
- 宮仕へ
- 春秋のさだめ
- 初瀬
- 夫の死
- 後の頼み
参考文献
- 大塚彦太郎(1889明治32)『更級日記講義』誠之堂。
- 玉井幸助(1925(大正14))『更級日記錯簡考』育英書院。
- 玉井幸助(1926(大正15))『更級日記新註』育英書院。
- 宮田和一郎(1931(昭和6))『更級日記評釈』麻田書店。
- 曾沢太吉(1949(昭和24))『更級日記新釈』星野書店。
- 玉井幸助(1949)『増訂更級日記新註』目黒書店。
- 玉井幸助(1952(昭和27))『更級日記評解』有精堂。
- 佐伯梅友(1955(昭和30))『更級日記の新しい解釈』至文堂。
- 宮田和一郎(1957(昭和32))『更級日記精講』学燈社。
- 関根慶子(1977(昭和52))『更級日記』(上・下)、講談社。
- 犬養廉(1984(昭和59))「更級日記」(『日本古典文学全集』(小学館)所収)。