日本外史
日本外史(にほんがいし)は、江戸時代後期に頼山陽が著した国史の史書、全二十二巻、漢文体で書かれた。文政10年(1827年)に山陽と交流があった元老中首座の松平定信に進呈、2年後に発刊された。
概要
平安時代末期の源氏・平氏の争いから始まり、北条氏・楠氏・新田氏・足利氏・毛利氏・後北条氏・武田氏・上杉氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏までの諸氏の歴史を、武家の興亡を中心に家系ごとに分割されて(列伝体)書かれている。なお「徳川氏」は、同時代の10代将軍家治の治世まで扱うが、後半部は人事の記述が主となっている。
武家の時代史であるが、史実に関しては先行諸史料との齟齬が多く、専門の学者達からは刊行当初から散々に批判された。豊後の儒者帆足万里は、「頼とやらの書いた書物は、文体は俗っぽく、且つ和臭だらけで文法的に間違いが多いのは勿論、考証は杜撰で、議論も公平でなく、味噌甕のふたにしか使えない」と、その文体、文法、考証、議論すべてを批判している[1]。もっとも帆足は本場中国の漢文についても、古代のものを重んじ、中世以降のものを軽んじる立場であった。また実際には彼の文章は文法的にミスが多かったわけではなく、根幹ではしっかりとした正則古典中国語の文法を踏まえているが、語法、語彙レベルで日本語の影響が見られることが問題にされた。これは日本外史が日本のことを扱っているため、朝鮮や越南において地元のことを扱った古典中国語文書同様、その地独自の用語や概念はそのまま用いるほかなかったことが理由とされている[2]。また、文体が俗っぽいという批判に対しては、保岡嶺南が「漢字をあまり知らない武人俗吏でも読めて内容をつかめる」と高く称えたように、その平明さを評価する声もある[3]。文体、文法の問題については、西暦1875年に清国で日本外史が出版されたとき、本場の文人達からも「左伝や史記に倣った風格のある優れた文章」であると賞賛されている[2]。
歴史考証は不正確で議論に偏りがあり、史書というよりは歴史物語である。だが幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大であった。また「五書・九議・二十三策」にあたる政治経済論の『新策』は、広島在住時の文化元年(1804年)に完成したが、後これを改稿し『通議』とした。天皇中心の歴史書『日本政記』(全十六巻)は「三紀」に相当し、没後門人の石川和介が、山陽の遺稿を校正して世に出した。伊藤博文、近藤勇の愛読書であったことでも知られる。頼山陽的な歴史観、国家観は幕末から維新、戦前の日本に大きな影響を及ぼした。
山陽の死後、弟子の岡田鴨里が日本外史補を著作・編集・刊行している。
構成
卷目 | 名称 | 卷目 | 名称 | |
---|---|---|---|---|
卷一 | 源氏前記 平氏 | 卷十二 | 足利氏後記 毛利氏 | |
卷二 | 源氏正記 源氏上 | 卷十三 | 德川氏前記 織田氏上 | |
卷三 | 源氏正記 源氏下 | 卷十四 | 德川氏前記 織田氏下 | |
卷四 | 源氏後記 北條氏 | 卷十五 | 德川氏前記 豐臣氏上 | |
卷五 | 新田氏前記 楠氏 | 卷十六 | 德川氏前記 豐臣氏中 | |
卷六 | 新田氏正記 新田氏 | 卷十七 | 德川氏前記 豐臣氏下 | |
卷七 | 足利氏正記 足利氏上 | 卷十八 | 德川氏正記 德川氏一 | |
卷八 | 足利氏正記 足利氏中 | 卷十九 | 德川氏正記 德川氏二 | |
卷九 | 足利氏正記 足利氏下 | 卷二十 | 德川氏正記 德川氏三 | |
卷十 | 足利氏後記 北條氏 | 卷二十一 | 德川氏正記 德川氏四 | |
卷十一 | 足利氏後記 武田氏上杉氏 | 卷二十二 | 德川氏正記 德川氏五 |
刊行文献
- 各子孫の頼惟勤等により訳された。後者は頼惟勤が解説・代表で、<一・二・三・五・六・十一・十三・十四巻>の8章(「織田氏」まで)である。