日の丸飛行隊

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日の丸飛行隊(ひのまるひこうたい)とは冬季オリンピックスキージャンプ・ワールドカップ等における、スキージャンプ競技に於ける日本のジャンプ陣である。

歴史

きっかけは、札幌オリンピック(1972年)の70m級(現在のノーマルヒル)ジャンプにて日本のジャンプ陣(笠谷幸生金野昭次青地清二)がメダルを独占した事に始まる。後に、冬季オリンピックやワールドカップ等で日本のジャンプ陣を日の丸飛行隊と呼ぶようになった。

札幌オリンピック後に長期低迷が続いたが、カルガリーオリンピック(1988年)直後からナショナルチーム入りした原田雅彦岡部孝信東輝葛西紀明らの登場で成績が再び上昇し、長野オリンピックではラージヒル団体で金メダル(原田、岡部、船木和喜斉藤浩哉)、ラージヒル個人で船木が金メダル、原田が銅メダル、ノーマルヒル個人で船木が銀メダルを獲得する大活躍を演じた。ワールドカップでも1997-98シーズンに船木が日本人最高の総合2位に入る。

翌年の1999年ノルディックスキー世界選手権でも団体で銀メダル、個人ノーマルヒルでは表彰台を独占、ワールドカップで葛西が総合3位に入るなど強さを見せた。しかし、翌シーズンからは長野五輪後に行われたルール変更への外国勢の対応、さらにその後のルール変更に対する日本の対応のまずさもあって、成績は徐々に下降線を辿るようになる[1]2002年ソルトレイクシティオリンピックでは団体5位、個人では船木のラージヒル7位が最高という成績に終わった。2003年ノルディックスキー世界選手権では葛西の復活があり、3種目でメダルを獲得。

2006年、日本のジャンプについて当時、日本ナショナルチームヘッドコーチだったカリ・ユリアンティラは「フィンランドオーストリアなどのジャンプ強国と比べて踏み切りの技術が未熟でレベルが低い。日本の技術は1990年代後半までは良かったがその後のルール変更による対応が全くできていない。しかも若い選手が全く成長していない上に主力が世界の強豪国と比べてあまりにも高齢だ。私の目標はトリノオリンピックでのメダル獲得ではない。2007年札幌で行われるノルディックスキー世界選手権に向けて有望な若い選手を見つけることだ」と話した。トリノオリンピックでのメダル獲得が困難であることが明白であるにもかかわらず若い選手が育っていないため、岡部・葛西らの出場は早々に内定し、最終的には原田も選考された。そのため、フィンランド、オーストリアなどのジャンプ強国のマスコミの一部からは日の丸飛行隊が「高齢者集団」であることを皮肉って「ロートルジャパン」と呼ばれた。20歳の伊東大貴、16歳の伊藤謙司郎ら若手も代表に選ばれたものの、団体6位、個人では岡部のラージヒル8位入賞が最高で、メダルの獲得はならなかった。

2006年3月、長らく日本のジャンプ界を牽引してきた原田が引退。2007年世界ノルディック選手権2009年世界ノルディック選手権では2大会連続で団体銅メダルを獲得。2007年大会は上位陣の失敗があったが、2009年大会は「今回は実力」と選手が語ったように、ユリアンティラの指導が浸透するとともに技術力の向上が見られ[2][3]、団体ではメダルを狙える位置につけた。しかし、2010年バンクーバーオリンピックでもメダルは獲得できず、日本勢の最高はノーマルヒルで伊東の15位、ラージヒルで葛西の8位、団体は5位に終わった。ユリアンティラは2010年3月31日をもって、日本ナショナルチームのヘッドコーチを辞任した。

2011年世界ノルディック選手権では女子選手の参加が初めて実現。2013年世界ノルディック選手権では男女混合団体で金メダルを獲得した。

2013-14シーズンは葛西がワールドカップで史上最年長優勝を達成、好調のまま2014年2月のソチオリンピックを迎え、ラージヒルで長野大会以来4大会ぶりとなる銀メダルを獲得。団体でも同じく4大会ぶりとなる銅メダルを獲得した。

主な成績

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  • オリンピックメダル:11個(団体3個、個人8個)

冬季オリンピック

団体
個人

※70m級:現在のノーマルヒル、※90m級:現在のラージヒル

脚注

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外部サイト

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  1. ルール変更と日本ジャンプ陣の16年2014年2月14日
  2. ジャンプW杯に見た、お家芸の復活。日本にメダルをもたらすのは誰だ?1
  3. ジャンプW杯に見た、お家芸の復活。日本にメダルをもたらすのは誰だ?2