文鴦

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文 鴦(ぶん おう、238年 - 291年)は、中国三国時代から西晋にかけての軍人。・晋に仕えた。次騫[1]。祖父は文稷。父は文欽。弟は文虎。「鴦」は幼名で、本名は文俶(「淑」という記載もある)という。並外れた武勇の持ち主だった。

生涯

毌丘倹の乱と諸葛誕の乱

父と毌丘倹が反乱を起こした時、父に従って司馬師の軍勢と戦った。

司馬師は汝陽に駐屯して、鄧艾を楽嘉に派遣した。鄧艾は魏軍が弱いと見せかけて文欽を誘い出し、司馬師も大軍を隠密に楽嘉へ移動させた。文鴦は18歳ではあったが、武勇は全軍随一であり、父親に「まだ勝敗は決していません。城に登って、鼓を打ち、大音声をあげれば、魏軍を撃ち破れます。」と言った。文鴦は敵を攻め三度騒いだが、父が応じなかったため、退いて父とともに戦線を東に下げた[2]

司馬師は文欽が逃げたことを知ると、精兵でもって追撃を開始させた。しかし諸将は「文欽は古強者だし、子の鴦は若く気鋭です。軍を退いて城に篭っても、未だ損害を被っていないなら、彼らが敗走することはありません。」と言った。しかし司馬師は「一度鼓すれば士気が生まれ、二度目は衰え、三度目で尽きる。文鴦が三度も鼓したのに、文欽は応じなかった。その勢いは既に屈している。敗走しないなら何を待っているのだ」と、追撃を緩めなかった。文欽が更に逃げようとした時、文鴦は「司馬師に先んずることができず、我が軍の勢いを折ってしまった。このまま退き下がることはできません」と言い、十数騎で魏軍に斬り込み敵陣を破り、向かうところ全てを薙ぎ払い、引き揚げていった。しかし、さらに魏軍の追撃を受け戦局が不利になったため、父と共に呉へ亡命した。

この頃、司馬師は自らの持病である悪性の目の瘤を手術していた。術後、あまり経過しない内に帰陣しており、そこへ文鴦の奇襲を受け無理をしたため、片方の目玉が飛び出してしまったという。閏月、病状が悪化したため司馬昭を呼び出し軍を委ね、許昌にて死去した。

諸葛誕が司馬昭に対して反乱を起こすと、 呉の将軍として諸葛誕の救援に向かった。しかし、父と諸葛誕が作戦をめぐって対立し、父が諸葛誕に殺されると、自分も殺されることを恐れて司馬昭に降伏した。この時、将軍に任じられている(『三国志』諸葛誕伝)。

晋の勇将

265年に魏が滅んで晋が成立すると、武帝(司馬炎)の時代に平虜護軍となった。また、涼州で反乱を起こした族の討伐に向かい、大勝利を収めた。

277年、司馬駿の統率の下、文鴦は禿髪樹機能を破り、降伏させた。後に東夷校尉・仮節となり赴任前に武帝に謁見した。しかし、武帝は彼に面会するや否や嫌悪感を覚え、別件に託け免職にした(『三国志』諸葛誕伝・『晋書』司馬駿伝)。

291年恵帝の時代に賈皇后(賈充の娘で賈南風)がクーデターを起こし、実権を握っていた楊駿一党を殺害した。クーデタ―に参加した東安公の司馬繇は諸葛誕の外孫に当り、母は諸葛誕の娘[3]であった。司馬繇は、文鴦が母の一族(つまり諸葛誕の一族)に復讐することを恐れ、文鴦を殺さんと謀り彼が叛逆したと誣告した。それは全くの冤罪だったが、結果的に文鴦の三族は皆殺しとなった(『晋書』司馬繇伝)。

三国志演義の文鴦

小説『三国志演義』にも登場し、毌丘倹の反乱の際には反乱軍の将として、趙雲[4]に匹敵する勇将として描かれている。因みに「横山三国志」には登場しない。

脚註

  1. 太平御覧(中国語)』 巻二百七十五 兵部六 良将上は干宝の『晋紀』を引いて「文淑,字次騫,小名鴦,有武力籌策。揚休、胡烈為虜所害,武帝西憂,遣淑出征,所向摧靡,秦凉遂平,名震天下。為東夷校尉,姿器膂力,万人之雄。」。
  2. 『魏氏春秋』によれば、軍を文欽と文鴦の2軍に分けて夜襲を行なった。文鴦が先に到着し大声で「大将軍」と呼ばわると、魏軍は恐れ乱れた。しかし文欽が遅れたため、呼応できずに撤退した。
  3. 諸葛誕の反乱後も、他家に嫁いでいたことを理由に連座を免れていた。
  4. 嘉靖本・黄正甫本では張飛