文徳皇后郭氏

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郭皇后(かく こうごう、光和7年3月10日(184年4月8日) - 青龍3年3月8日(235年3月14日))は、の初代皇帝曹丕(文帝)の皇后。は徳で、諡号としては文徳皇后女王、本名は不明。荊州南郡太守郭永の次女、母は董夫人。冀州安平郡広宗県(河北省広宗県)の出身。

幼い頃に両親を失い家が没落したため、やむなく召使として働いていたが、魏公となった曹操に見出されて東宮の女官となり、その智から曹丕の寵愛を得て、やがて妾となった。曹丕に様々な献策をし、曹丕の立太子に尽力したという。

曹丕の魏王即位に伴い夫人、魏帝即位の際は貴嬪となり、222年に皇后に立てられた。

曹丕が郭氏を皇后に立てようとした際、没落して低い立場だったために群臣の反対を受けたが、曹丕はこれを押し切って皇后に立てた。郭氏はそうした経緯もあってか、身内にある程度の便宜を図ることはあったが、それ以上は堅く戒め「嫁を貰うならば、同郷で家柄の釣り合う家から貰うべきです。権勢を利用して、無理に他国(ここでは諸侯の封土を指す)の女性を娶ってはいけない」、「それぞれ自戒して、処罰を受ける人間とならないようにしなさい」といった言行を残している。

曹叡(明帝)が即位すると皇太后の称号を贈られ、永安宮に住んだ。235年(青龍3年)に許昌で崩御し、その遺言に従って首陽陵の西に陪葬された。

備考

『魏略』や『漢晋春秋』といった史書には、甄氏の死は郭氏の差し金によるものとなっている。「曹丕が文帝として即位し、そのうちに野心を抱くようになった郭氏は、曹丕に讒言して甄氏が死を賜るように仕向け、自らが皇后に収まった。しかし嗣子に恵まれず、甄氏の生んだ曹叡を猶子とせざるをえなかった。曹丕の死後、皇太后の尊称を贈られたものの、やがて即位した曹叡により過去の罪を糾弾され、死を賜った。」という内容である。

しかし、帝陵の西に葬られた(=「元配の格式で埋葬された」の意の慣用表現。西は五行で秋に相当し、秋は陰陽説において陰(すなわち女性)にあたる。つまり、女性の葬られる位置である)という『魏志』の記述や、皇太后の尊称と良諡を贈られていることを考えれば、曹叡が郭氏に対して悪意を抱いていなかったと推察できる。

また、生前は位の無かった甄氏に対し、郭氏は夫人、貴嬪と曹丕の出世に合わせ次々と高位についている事から、甄氏よりも地位が高かった事が伺える上、曹丕の甄氏に対する寵愛が既に薄れていた事を考えれば甄氏に対し嫉妬する要素は特に無く、わざわざ死に追いやる必要はなかった事になる為、矛盾が生じる。