戸田氏西
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戸田 氏西(とだ うじあき、寛永4年11月1日(1627年12月8日) - 貞享元年6月7日(1684年7月19日))は、江戸時代前期の大名。美濃大垣藩の第3代藩主。大垣藩戸田家4代。
第2代藩主・戸田氏信の長男。母は牧野忠成の娘。正室は内藤忠政の娘。子に戸田氏定(長男)、戸田氏成(次男)。官位は従四位下、但馬守、肥後守。
寛永4年(1627年)11月1日生まれ。幼名は新二郎。寛文11年(1671年)11月に父から家督を譲られ、藩主となった。氏西が家督を相続した頃には、大垣藩の財政はかなり逼迫していた。氏西はこれに対し、改革を断行する。同年、不破郡の検地を実施して幕府から賞賛された。その後も郡奉行制から代官制への移行、「延宝の大暇」と呼ばれた176人にも及ぶ家臣団の整理(リストラ)や藩財政の経費節減などに努めた。天和元年(1681年)には半知借上げも実施。また、藩札なども発行しているが、氏西の藩政改革の効果は薄く、大垣藩の藩財政はさらに悪化していった。