戸田忠恕
戸田 忠恕(とだ ただゆき、ただくみ、ただひろとも、弘化4年5月23日(1847年7月5日) - 慶応4年5月28日(1868年7月17日))は、江戸時代末期の大名。下野国宇都宮藩第6代藩主。戸田氏25世孫にして田原戸田家14代当主。田原戸田家の嫡流。宇都宮藩戸田家12代。
第4代藩主・戸田忠温の六男で、第5代藩主・戸田忠明の弟。正室は戸田光則の娘。幼名は綏之助。号は葵城。官位は従五位下、越前守。没後、贈従三位。
安政3年(1856年)、兄・忠明の死で跡を継ぎ、従五位下越前守に任官した。幼少だったために家老の間瀬和三郎(後の戸田忠至)や県勇記の補佐を受け、家老・間瀬(戸田忠至)の活躍もあって歴代天皇陵修理を建議し、山陵奉行に任ぜられ、任にあたった。主に家老の間瀬、県らが中心となって京都、大和、河内、近江各地の山陵を調査し、修理にあたった。
忠恕は尊王の志に篤く、元治元年(1864年)、水戸天狗党の乱が起きた折、筑波山に出撃した宇都宮藩兵が幕府の命令が下る前に帰陣してしまったことや、もともと藩内に藩主一門の戸田次郎光形をはじめとする宇都宮天狗党なる攘夷勢力を抱えていたことなどもあり、反勢力に関しては既に処分済みではあったものの、幕府の怒りを買うこととなり、再出陣を願い出はしたものの、領国7万7000石のうち2万7000石を減じて5万石とし、忠恕は隠居謹慎のうえ養嗣子の忠友に家督を譲り、さらに田原戸田家は陸奥国棚倉藩に転封とする命が下されることとなった。しかし、藩老県信輯と岡田真吾が山稜補修で親交のあった正親町三条実愛および藩主の親戚でもある戸田忠至に温情を請い、その力によってこの処分は延期、中止された。
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の折は新政府軍につくも、幕府軍により攻められ落城したが、宇都宮藩は宇都宮城を再び奪回。忠恕は朝廷より召し出しを蒙るが、病にて果たせず同年5月、22歳の若さで病死した。墓は田原戸田家菩提寺である宇都宮の英厳寺。戒名は霊光院殿神岳忠烈大居士。没後、従三位を贈位された。
関連書籍
- 福田光男著「宇都宮城物語」(下野新聞社発行)ISBN 978-4-88286-329-8