戸田勝則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

戸田 勝則(とだ かつのり、天文3年(1534年) - 元和6年6月5日1620年7月4日))は、戦国時代中期~江戸時代初期にかけての戦国武将旗本。通称は九右衛門。九平。父は戸田氏一門の戸田光忠で、勝則は次男。兄には戸田忠次がいる。徳川家康に近仕し、武勲著しい。

人物伝

  • 生涯

はじめ、兄の戸田忠次とともに三河国佐々木に住した。永禄6年、岡崎に至り、徳川家康に仕えた。翌年、永禄7年、戸田一族が今川氏真の臣で、戸田家の旧領 田原を治める朝比奈氏を攻めるため従軍し、活躍した。9年、家禄を賜り、兄の忠次の配下として附属した。天正19年5月、相模国高座郡に200石の加増を受け、家康の近習となった。慶長6年9月、近江国野洲、栗太二郡において500石を賜った。元和6年6月5日没。享年87。子孫は旗本として存続した。

  • 武勲

永禄7年 三河国田原城の朝比奈肥後守攻めにおいて、野田村の蔵の陰に潜んだ伏兵に遭遇し奮戦。この戦いにおいて、敵兵4名を射して、兄の忠次を窮地から救った。さらに、一族の戸田光定が朝比奈三十郎と槍を合わせた際は、これを射して功を挙げた。

関連項目