戚継光

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戚 継光(せき けいこう、嘉靖7年十月初一日(西暦で1528年11月12日) - 万暦15年十二月初八日(西暦で1588年1月2日)は、中国代の武将である。倭寇及びモンゴルと戦ってともに戦果を挙げたことからその名を知られる。元敬武毅。竜行剣という剣法の開祖とも伝えられる。

略歴

登州衛(山東省蓬莱県)の出身。中国沿岸を中心に密貿易を行っていた倭寇(後期倭寇と呼ばれる)の討伐に従事する。浙江省金華・義烏で兵を集め、“戚家軍”と呼ばれる自身の精兵、水軍を組織する。胡宗憲の指揮下で兪大猷劉顕らとともに倭寇を討伐する。(但し、当時の後期倭寇は日本人ではなく倭寇を騙った中国人が中心である[1]

1567年海禁令が解かれて倭寇の活動が沈静化すると北方防備に従事し、アルタン・ハンの侵入に対応する。大規模な万里の長城の補強・増築工事に取り組んだ。

こうした武歴から内閣大学士で当時大きな権力を持っていた張居正に重用されるようになったが、張の死後、戚の功績を妬む者から弾劾され、免職された。その処置は3年後に撤回されるものの、まもなく失意のうちに世を去った。

人物

  • 歴戦の勇将ながら大変な恐妻家であったとされ、軍律に背いた息子を処刑したことに怒った夫人から生涯妾を持たない事を誓わされた。その後、こっそり妾を2人作ってそれぞれ隠し子を1人ずつもうけたが、ある日夫人にバレてしまう。夫人から妾と子供を殺すよう迫られた戚継光は、1日だけ猶予をもらい部下であった夫人の弟を呼びだし「妾たちを許し、子供を養子として引き取るよう姉を説得しろ。さもなくば、お前もお前の姉も、お前の一族も全員殺したうえ自分は官職を辞し世捨て人になる」と脅した。弟は泣きながら夫人を説得したため、夫人は仕方なく隠し子を引き取り、母親である妾2人には杖罰五十を加え追放するに止めた。これを聞いた世間の人々は、戚継光の深謀を称えると共に、彼の恐妻家ぶりを笑った。
  • 紀效新書』『錬兵実紀』などの兵学書も残している。これらの兵法が清末に注目されるようになり、まず太平天国の乱の鎮圧に当たった曽国藩がこれをもとに自らの軍を整備する。さらにしばらくして中国に対する日本の侵略がなされるようになると、倭寇を討伐した経歴を持つ戚継光の業績を称える風潮が起るようになった。日本でも、兵学にも一家言あった江戸時代の儒者・荻生徂徠が『紀效新書』を高く評価した。
  • 『紀效新書』本文十八巻の一つである「拳経」は宗太祖三十二勢長拳と呼ばれる武術を図版で解説している。太極拳には同じ技法(単鞭など)が見られる。また、戚継光は倭寇との戦いで得た日本の陰流剣術の目録を研究し『辛酉刀法』を著している。

脚注

  1. 明史』「日本伝」に、「真の倭は十のうち三である」とある。

史料

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関連項目